2011年02月15日
ゴドーと歩きながら 最終回
「どうしてですか」
純一朗はどのように説明すればいいか迷った。
「とにかく、できません」
純一朗の困っている様子に洋子は同情した。
「仕方がありません。幸恵は私が連れて行きます。純一朗さんが変な人で、幸恵の面倒を見る能力がないことを私は責めることはできません。純一朗さんは可哀相です。変な純一朗さんに面倒を見られる幸恵はなおさら可哀相です」
洋子は幸恵を抱いた。純一朗はほっとした。
「芸術の都パリ、シャンゼリゼ。ああわくわくします」
「あきれた女だ。洋子。お前とは離婚だ。離婚をしてもいいならシャンゼリゼ通りでもシベリアでも北極でも行きなさい」
「ありがとう純一郎さん。あなたのやさしい言葉をはじめて聞いたわ」
孝一郎はノートパソコンを枕にしてベンチに横たわっていた。
「お父さんは死んだのかしら。オーストラリアで死ぬなんて私困るわ。アフリカとかアメリカとか私がまだ行ったことのない外国の地で死んでほしいわ。ねえ、お母さま」
「私はどちらでも構わないわ」
「お母さまはそれでいいかも知れないけど私は困ります」
洋子は「お父さま」と言いながら孝一郎の体を揺さぶった。
「ああ、洋子さん。話し合いは済んだかい」
「ああ、よかった。生きていた。お父さん。オーストラリアで死んでは困ります。私が行ったことのない外国の地で死んでください」
「どうしてだ」
「だって、葬式を理由にして私は外国へ行けますから」
「ああ、そうか。洋子さんの考えは当然だ。しかし、洋子さんの希望通りの地で死ねるかどうかは難しいな」
「そうですよね」
洋子はがっかりした。
「孝一郎さん。洋子さんをがっかりさせるものではありません」
花子は孝一郎をいさめた。
「それはそうだが、しかし、どこの地で死ぬかは運が左右するのだから私には分からないとしか言えない」
「洋子さんの希望がかなうように努力することはできますわ。心で」
「ああ、そうか。努力することはできるな。心で」
孝一郎が心で努力すると言ったので洋子は喜んだ。そして、洋子の希望する地で死ぬのを孝一郎が努力するように念を押した。
「努力してください、お父さん。お願いします」
「わかった。努力だけはするよ」
「私と離婚すればお前は他人になる。葬式に呼ばれないぞ」
純一郎が勝ち誇ったように言った。洋子は「あー。」と悲鳴を上げると口を押さえてうろたえた。離婚すると純一郎の母親である花子と縁が切れて他人の関係になってしまうことに洋子は気づいた。純一郎と離婚すれば花子との縁が切れて花子や孝一郎が外国の地で死んだ時に洋子は葬式に呼ばれない。純一郎と離婚をしないためにはシャンゼリゼ通りからシベリアまでの旅行を断念して純一郎と一緒に日本に帰らなければならない。洋子は離婚を覚悟してシャンゼリゼ通りに行くか行くまいか悩んだ。
「どうしよう。どうしよう」
洋子は悩んだ。純一郎と離婚すれば花子か孝一郎が外国で死んでも葬式に行けそうもない。今度の旅行を選ぶか外国で花子か孝一郎が死んだ時の葬式参列を選ぶか。洋子は悩みに悩んだ。悩んだ末に洋子は決断をした。花子と孝一郎が外国で死ぬ確立は百パーセントではない。もし日本で死んだら外国には行けない。だから洋子は確実に行けるシャンゼリゼ通りからシベリアまでの旅行を選んだ。しかし、花子と孝一郎が死んだときの葬式参列にも未練があった。洋子は純一郎に離婚しないように頼んだ。
「純一郎さん。あなた。私の夫。私は断腸の思いでシャンゼリゼ通りに行くことを決心しました。純一郎さん。私はあなたを愛しています。とても愛しています。後生ですから離婚をしないでください。お願いします」
洋子は純一郎に深く深くお辞儀をした。純一郎は勝ち誇った顔で、
「いや離婚する」
と言った。洋子は泣きべそをかきながらうろたえた。
「どうしよう。どうしよう」
洋子は花子に訴えることにした。
「純一郎さんと離婚すればすれば私はお母さんの葬式に呼ばれないのでしょうか」
「さあ、どうなのでしょうか。孝一郎さん。どうなりますか」
「ううん。離婚すると洋子さんは血縁関係でなくなるから呼ばれないだろうな」
二人からは絶望的な返事がかえってきた。洋子は必死に考えた。
「幸恵は呼ばれますよね。孫ですから」
「幸恵は呼ばれます」
「それじゃ幸恵の親権者は呼ばれますか」
「親権者か」
「はい、親権者です」
「ううん。呼ばれるかもしれないし呼ばれないかもしれない」
「それじゃそれじゃ。」
洋子は唾を飲んだ。
「幸恵の世話人は呼ばれますか」
「世話人ですか」
「世話人です」
「ううん。呼ばれるかもしれないし呼ばれないかもしれないな」
「それじゃですね。親権者かつ世話人ならどうなりますか」
「親権者かつ世話人ですか」
「はい」
「親権者かつ世話人なら呼ばれると思います」
「ああ、よかった。私は離婚しても幸恵の親権と世話人の権利だけは必ず勝ち取りますわ」
洋子は晴々とした表情になった。
「それではお母さん。行きましょう」
と洋子は言った。洋子に促されて花子、孝一郎、純太、真由は歩き始めた。洋子の分けのわからない強引な理屈に呆然としていた純一郎だったが、我に返ると急いで六人の前に立ちはだかった。
「お母さん。お父さん。洋子と純太と真由をシャンゼリゼ通りに連れて行かないで下さい。明後日から学校が始まります。学校を休ませるわけにはいかないのです」
花子、孝一郎、洋子、純太、真由対純一郎の対峙は純一郎が圧倒的に不利であり、純一郎は五人の歩みを止めることはできなかった。花子と洋子はじゃがいもについて楽しく談笑し、純太と真由は「おててつないで・・・」と高らかに歌い。孝一郎は携帯電話でタクシーを呼び、ノートパソコンでフランス行きのチケットの予約をした。
オーストラリア大陸の公園らしき場所は陽が暮れようとしていた。薄暮の砂漠で純一郎の哀願する声が地の上を四方八方に広がっていった。
2011年02月13日
ゴドーと歩きながら 19/20
「あなたはオーストラリア旅行をしている間はずっと高校の生物の先生でした。あなたは職業病なのです。オーストラリア旅行はまるで高校の生物研究の旅行でしたわ。とても勉強になりました。でも私は高校を卒業しました。とても詰まらない勉強でしたわ。高校を卒業した私に生物の勉強をさせ、小学生の純太ちゃんと真由ちゃんに高校の生物を教える純一朗さんは変な人です。病気です」
洋子と純太と真由は病気の純一朗を哀れんだ。三人の哀れむ視線に純一朗は苛ついた。
「なんだお前達の目は。私を哀れむ目をして。そんな目をしても私の考えは萎えない。純太はシャンゼリゼ通りには行かせない。明日は日本に帰る。あさってから学校に行く。それが決まりだ。いいか純太。シャンゼリゼ通りに行ってはならない。お父さんの命令だ」
純太はべそを掻いて花子に言った。
「お父さんがおばあちゃんと一緒にシャンゼリゼ通りに行ってはいけないって」
「おや、まあ。そうなの。純一郎は変な子だったからねえ」
洋子は花子に聞いた。
「純一郎さんは変な子だったのですか」
「そうですよ。洋子は純一郎のことをどう思いますか」
「変な夫だと思います。純太君はどう思うの」
「変なお父さんだと思う。真由はどう思うか」
「変なお父さんだと思うわ」
純一郎は「変な子」であり「変な夫」であり「変な父」であると言われたことに大きなショックを受けた。
「変なのはお前達だ」
と言ったが誰も純一朗の主張に頷く人間はいなかった。四人は純一郎を哀れむような目で見た。
「純一朗はね。私が出掛ける度に『お母さん。どこに行くのですか。』といつも聞いたのよ。変な子だったわ。
純一朗はいつも家の庭でしか遊ばなかったの。純司、純三、純子、純美の兄弟がいたけど、他の子が外に遊びに行っても純一朗だけは庭で遊んでいたわ。そして、私が出掛ける時には必ず寄って来て『お母さん。どこに行くのですか。』と聞いたのよ。変な子でしょう」
花子の話に洋子と純太と真由は大きく頷いた。
「ちょっとそこまでじゃがいもを買いに出かけた時にも純司、純三、純子、純美も庭で遊んでいたから純一朗がみんなを連れて私の後を付いてきたのよ」
「あらまあ。じゃがいもを買いに出掛けた時でもみんな付いてきたのですか」
「そうよ。変な子でしょう」
「変な子ですわ」
洋子は口を押さえて笑った。
じゃがいもを買いに花子の後を追っていった時のことを純一朗は思い出した。純一朗が小学六年生の時だった。札幌に住んでいた時のことである。純一朗達兄弟は庭で降り積もった雪を集めて雪だるまを作って遊んでいた。花子は純一朗達の前を横切ったので純一朗は、
「お母さん。どこに行くのですか」
と聞いた。すると花子は、「ちょっとそこまで」と言って通り過ぎようとしたので雪遊びに飽きていた純一朗は、「僕達も行く。」と言ったので、兄弟全員も集まってきて花子の後をついて行った。
花子は列車に乗り札幌空港に行き、札幌から成田に行った。成田空港から旅客機に乗ると大海原を越えて南島の沖縄島の那覇空港についた。那覇空港に着くと花子はタクシーに乗り、運転手に「宜野座まで。」と言った。宜野座村は冬にじゃがいもを収穫する。花子は宜野座の売店でじゃがいもを五キロ買って札幌に帰った。
洋子は口を押さえて笑ったのは、花子が近くのスーパーにじゃがいもを買いに行ったと勘違いし、スーパーの中を五人の兄弟がぞろぞろと花子の後ろを金魚の糞のようについて回っている様子を想像して笑ったのだろうと純一郎は思った。しかし、花子は冬の札幌から亜熱帯の沖縄に遠路はるばるじゃがいもを買いに行ったのだ。純一郎は洋子が笑っているので馬鹿にされているような気がした
「洋子。お母さんはどこにじゃがいもを買いに行ったか分かるか。札幌のスーパーに行ったと思っているだろう。それは違う。お母さんはね。沖縄にじゃがいもを買いに行ったんだ」
洋子は驚いた。
「なぜ沖縄にじゃがいもを買いに行ったのですか」
洋子が純一朗に聞いていると、花子が答えた。
「沖縄は冬にじゃがいもを収獲するのです」
「え、本当ですか。初耳ですわ。沖縄は冬にじゃがいもを収穫するのですか」
「じゃがいもは新じゃががおいしいのです。だから沖縄の新じゃがを買いに行ったのですわ」
洋子は花子が新じゃがを買いに沖縄まで行ったことに感動し大きく頷いた。
「冬にじゃがいもが収獲できるなんて素晴らしいことですわ。私も沖縄の新じゃがを食べたくなりました。ああ、想像しただけでよだれが出てきます。沖縄の新じゃがはおいしかったでしょうね」
「新じゃがに当たり外れなしです。おいしかったに決まっていますわ」
「ああ、沖縄のじゃがいもを想像するだけでわくわくします。北海道のじゃがいもと沖縄のじゃがいもとは味の違いはどうでしたか」
「そうねえ。沖縄のじゃがいもは小ぶりで甘味がありました」
「甘味があるのですか」
「はい。甘味があります」
「ああ、ますます沖縄の新じゃがが食べたくなりました。うわー、よだれが出てきた」
「分かったか洋子。おかあさんはちょっとそこまでと言って遥か遠い沖縄まで行ったのだ」
だから変であるのは花子の方であると純一朗は言いたかったが、母親を変人呼ばわりするのは躊躇した。すると、洋子はきっと純一朗を睨んだ。
「新じゃがを買うのなら沖縄はちょっとそこまでです」
「札幌から沖縄までをちょっとそこまだって。お前の頭は変だよ」
「私の頭が変だというの。どうして変なの。ちゃんと説明してください」
「札幌から沖縄だよ。飛行機に乗っていくんだよ。ちょっとそこまでというのは歩いて行ける近距離の場所を意味するのだ。札幌から沖縄はちょっとそこまでではない。遥か遠い所だ」
洋子は純一朗の浅はかな思考に呆れてしまった。
「純一朗さんの頭は変です。いいですか、新じゃがを買いにアルゼンチンに行くのならちょっと遠い所に行くということになります。札幌からアルゼンチンへの距離と札幌から沖縄への距離を比べてください。沖縄はアルゼンチンよりとても近い所よ。だから沖縄はちょっとそこまでの距離なのです。純一朗さんは常識のなさを恥じるべきですわ」
「お前の考えはおかしい。お前の頭は変だ。お前こそ常識がないのだ」
洋子は純一朗に常識のない女だと言われて怒った。純一朗と洋子は激しい口論を展開した。
「洋子さん。純一朗は子供の頃から変な子でした。変な人間に変と言われるのに腹を立てるのは愚かなことです。否定の否定は肯定だということを知っているでしょう。変な人に変と言われるのは正常であるということなのです」
「そうでしたわ。変人に変人と言われることは正常と言われていることになりますわね。変人に変人と言われることは歓迎すべきですね。私は軽率でしたわ」
洋子は純一朗と口論するのを止めた。
「それでは純一朗。ごきげんよう」
花子は歩き始めた。純太と真由は花子の手を握って花子と一緒に歩いた。純一郎はあわてて花子の前に立ち塞がった。
「純太と真由を連れて行くのは止めてください」
「それは純太ちゃんと真由ちゃんが決めることです。純太ちゃんと真由ちゃんが行きたいのなら連れて行きます。行きたくないのなら連れて行きません」
「僕は行きたい」
「私も行きたい」
「幸恵も行きます」
純太と真由の側に立っている洋子は毅然として言った。三対一になった純一朗は不利になり、三人を引き止める力を失っていた。純一朗は最後の爆弾を投げた。
「離婚だ。夫をほっといてシャンゼリゼ通りに行く女なんか妻として失格だ。洋子。お前とは離婚だ。本気だぞ。お前にとってシベリアのじゃがいもと家庭とどっちが大事なのかようく考えるんだな」
しかし、洋子に迷いはなかった。洋子は幸恵を純一朗に渡した。
「貧乏人の私にとってこのチャンスを逃したら二度とシベリアのじゃがいもを食べるチャンスはありません。特に純一朗さんと結婚していたらシベリアに行くのは不可能です。あなたは南米やエジプトやインドやイラクの大自然や歴史的名所旧跡への二泊三日の旅行しかやらないと思います。離婚の手続きはシベリアから帰った後にやります。離婚手続きを終わっていない今は純一朗さんと私は夫婦です。現在は純一郎さんの妻ですから花子さんはお母さんです。私はお母さんとシベリアに行きます。よろしいですかお母さん」
「洋子さんの意見は理に適っています。一緒にシベリアのじゃがいもを食べに行きましょう」
幸恵を渡された純一朗は慌てた。
「待ってくれ。幸恵が居たのでは私は高校に行けない。仕事ができない」
「私は知りません。純一朗さんの問題です。純一朗さんの問題は純一朗さんが解決してください」
「なんて薄情な母親だ。幸恵を私に押し付けてシベリアのじゃがいもを食べにいくなんて」
「シベリアのじゃがいもと幸恵は関係ありません。シベリアから帰ったら私と純一朗さんは離婚します。私が幸恵を育てるか純一郎さんが幸恵を育てるかの問題は離婚手続きの前に決めなければなりません。純一朗さんは私が留守をしている間に幸恵を育てる体験をやってから誰が幸恵を引き取るか決めてください。私はもめるのは嫌いですから純一朗さんが決めたことに従います。それではごきげんよう」
洋子はお辞儀をしてからくるりと身体を回転させると歩き始めた。幸恵の面倒をみては高校で教鞭を取ることはできない。純一朗は洋子を止めた。
「幸恵を抱えては仕事ができない」
花子は言った。
「幸恵ちゃんをおんぶしながら仕事をすればいいのです。そんなことも思いつかないなんて変な子だねえ」
「あ、駄目ですよお母さん。アドバイスをしないで下さい。私は純一朗さんを困らせるために幸恵をおんぶする方法を教えなかったのです」
「洋子さん。意地悪をやっては駄目です」
「すみませんお母さん。」
幸恵をおんぶして授業をやるわけにはいかない。
「幸恵をおんぶして高校の授業なんかできませんよ。」
花子は驚いた。
「純一朗は幸恵をおんぶする体力もないですか。それではベビー車が必要です。純一朗は自分で調達しなさい。」
「幸恵くらいおんぶできます。」
「ああ、そうですか。純一朗が虚弱体質になってしまったのかと心配しました。肩に食い込まない帯がいいですよ。」
「そういう問題ではないです。幸恵をおんぶした状態で授業をやるわけにはいかないと言っているのです」
花子は首を傾げた。
2011年02月12日
ゴドーと歩きながら 18/20
「お前はシャンゼリゼ通りだけでなくシベリアまで行く気なのか。僕は絶対に許さないからな」
「え、どうしてですか。」
「洋子。明後日から学校が始まるのだ。純太と真由は学校が始まる。僕も高校に出勤しなければならないのだ」
「はい」
「だから、洋子はフランスに行く余裕なんかない」
「余裕はあります。私は純太ちゃんや真由ちゃんのように小学校に行く必要はありませんし、純一郎さんのように高校に出勤する必要もありません。それに純一郎さんは私が居なくても生活ができます。私には余裕がたくさんあります」
「あきれた女だ。よく聞けよ。純太と真由は学校が始まる。僕も高校に出勤しなければならないのだ。朝ご飯や僕の弁当を誰が作るのだ。まさか僕に作れと言っているのか」
「純太と真由ちゃんはシャンゼリゼ通りに行きますから、純一郎さんは一人で生活することになります。純一郎さんなら一人生活ができますから、純一郎さんが学校に行くのになんの支障もありません」
「純太と真由はシャンゼリゼ通りに行くと決まったわけではない」
「え、そうなのですか。純太くん。シャンゼリゼ通りに行くのはまだ決まっていないの」
洋子は純太に聞いた。
「決まっているよ。シォンゼリゼ通りに行って、ドイツに行って、それからシベリアのじゃがいもを食べに行くよ。洋子さんはどうしますか」
「あら、純太ちゃんと真由ちゃんもシベリアまで行くの。よかったわ。幸恵もシベリアに行くから私も行くことになるわ。純太ちゃんと真由ちゃんがシャンゼリゼ通りから家に帰ることになると幸恵と私だけがシベリアまで行くことになるから心細い思いをしていたの。それに純一郎さんは自分だけの炊事洗濯だけではなく純太君と真由ちゃんの炊事洗濯もしなければならないでしょう。純太君と真由ちゃんがシャンゼリゼ通りから家に帰ると純一郎さんは苦労するわ。純一郎さんに苦労をさせない純太ちゃんと真由ちゃんはなんてお父さん孝行の子供なんでしょう。あなたたちの母親になったことを私は誇りに思うわ」
洋子は純太たちがシベリアまで行くのを始めて聞く振りをして大げさに喜んだ。しかし、純一郎は憤然とした。
「オーストラリア旅行に連れてきたというのに、それに飽き足らずシャンゼリゼ通りからシベリアまで行きたがるとは洋子も純太も真由も身勝手で強欲な人間達だ。オーストラリアに来れただけでも私に感謝すべきだ」
三人は嬉しそうに、
「オーストラリア旅行に連れて来てくれて、とても感謝しているわあなた」
「感謝しますお父さん」
「ありがとうお父さん」
と言った。
「分かったようだな。それでは今日はシドニーのホテルに泊まって、明日は日本に帰るよ。さあ、ホテルに行こう。」
三人は動かなかった。
「純一郎さんが連れて行くところは名所旧跡や自然公園だけ。インディアンの住居や駝鳥やコアラやカンガルーなどの動物を見るだけだわ。私は少しもおもしろくなかった。あなたは生物の先生だから興味があるかも知れませんが、私は名所旧跡や動物や自然に興味はありません。退屈な旅行でした。楽しみはありませんでした。私は幸恵の世話人としてシャンゼリゼ通りに行きます。ごきげんよう純一郎さん」
「お前は私に感謝すると言ったじゃないか」
「感謝するわ。オーストラリアに来た分だけ」
「どういう意味なのか」
「言った通りの意味です。あなたがオーストラリア旅行に連れてきた分だけ感謝します。オーストラリア旅行でおもしろくなかった分は感謝しません」
「お前みたいな計算高い女は許せない」
純一郎が洋子を叱ろうとした時、純太が、
「お父さん」
と言った。純一郎は純太を無視して洋子を叱った。純太は大きな声で「お父さん。」と言ったので純一郎は純太を見た。
「お父さんがオーストラリアに連れて来たことに感謝します。でもそれは僕がシャンゼリゼ通りに行かない理由にはならないと思います。そうではないですか」
「なにを言うのだ。明後日から学校が始まるのだぞ。学校に行かなければならないのだ。明日は家に帰らなければならない」
「お父さんは僕が学校に行けないことで僕が心細くなることを心配しているようですが、お父さんは心配症です。心配しないで下さい。ボクは学校にいけないことを気にしません。僕は平気ですから。僕はお婆ちゃんとシベリアまで行きます」
洋子は頷いたが純一郎は純太を叱った。
「学校を休んだら勉強が遅れてしまう。それはあってはならない」
「大丈夫です。僕は気にしません」
「僕は教師だ。教師の子供が遊びのために学校を休むことを許すわけにはいかない。勉強と遊びとどっちが大事かよく考えなさい」
純太は考えたがどっちが大事か判断するのに困った。
「純一郎さん。純太君に勉強と遊びとどっちが大事かを考えさせるのは酷いです。純太君がどんなに考えても純一郎さんは勉強が大事であるという答えしか待っていないですもの」
と洋子が言った。
「洋子は口出しするな。さあ、純太。考えたな。考えた結果を言いなさい」
「はい。遊ぶことより勉強の方が大事です」
「そうだ。勉強が大事だ」
「でもお父さん。僕は勉強という大事ものを失っても平気です。シャンゼリゼ通りに行ってドイツに行って、モスクワに行ってシベリアに行くということは勉強する大事な時間を失います。でも僕は大事な勉強の時間を失っても平気です。僕は勉強という大事なものを失ってもへこたれません。僕はお父さんが予想している以上に逞しい人間なのです」
純一郎には純太の話は誤魔化しに思えた。純一郎は学校に行きたくない気持ちを正当化しようとしている純太の浅知恵を嗜めて、将来のためには勉強をすることが大事であると説教しようとしたが、
「だって、お父さんとお母さんが離婚してお母さんが家から居なくなっても僕はへこたれなかったよ。本当は平気じゃなかった。でもお父さんのことを考えて平気な振りをした。僕は大事なお母さんを失ってもへこたれることはなかった。僕はお父さんが想像している以上に逞しいんだ」
と言われて純一郎は言葉に詰まった。しかし、学校を休んで旅行をさせるわけにはいかない。純一郎は気を取り直して説教をした。
「小学生は小学校に行って勉強しなければならない。勉強しなくてもいいという理屈は認められない。そうなんだぞ純太」
純一郎は語気を強めて話した。
「小学生は学校で勉強するのが義務であり勉強を疎かにしてはならない。だから学校に行かなければならないのだ。義務教育とはそういうものなのだ。純太。こっちに来なさい。明後日からは学校に行かなければならないのだ。学校は子供が勉強するためにある。子供は学校に行って勉強しなければならないのだ。それは純太の義務なのだ。わかったな」
「純一郎は変なことを言うわ」
「そうですわね。お母様」
花子と洋子が純一朗を変人扱いをしたので純太は意を強くした。
「お父さんは変です」
息子の純太に変人と言われて純一朗は怒った。
「お父さんのどこが変なのだ。言ってみなさい」
「学校は卒業するためにあるのです。勉強するためにあるのではありません。小学校を卒業できた時に中学校に進学することができます。小学校で勉強しても小学校を卒業できなければ中学校に進学できません。中学校を卒業することができた時に高校に進学できます。高校を卒業することができた時に大学に進学できます。大学は卒業するために入学する所です。どんなに勉強しても卒業しなければ大学で勉強した資格を与えられないことをお父さんも知っていると思います。だから、卒業するために学校はあるのです。だから卒業できる程度に休むことは正しい休み方なのです」
純太が打算的な思考をしているのに純一朗は愕然とした。教育者として純太の間違った考えを改めなければならない。
「なんてことを言うのだ。いいか。人間は生まれた時は精神も知識もゼロ状態だ。人間は学校で教育を受けて一人前の社会人になれるのだ。学校は一人前の社会人になるための勉強をする場なのだ。勝手に学校を休むのは許されることではない」
「大学生Aは一生懸命勉強したが卒業できませんでした。大学生Bは勉強はしなかったが卒業しました。社会では大学生AとBではどちらが一人前でしょうか。お父さん。答えてください」
純一朗は返事に困った。
「一生懸命に勉強した学生が卒業できないはずがない。純太のクイズは愚劣だ。下らないクイズだ。お前は意地の汚い人間だ。こんな精神の捩じれた考えをどこで仕入れた。お前は精神を一から叩き治す必要がある」
純一朗の剣幕がすごいので純太は花子の後ろに隠れた。
「純太。ここに来なさい」
「いやだ」
純太は花子の後ろから出ようとしなかった。
「お母さん。純太を匿わないで前に出してください」
花子は純一朗の言っていることが理解できなかった。
「なぜですか」
「純太の精神を叩き直します」
花子がくくくくくと笑った。
「純一朗は変な子だねえ。精神は叩けば直るものですか。どんな風に精神を叩くのですか」
「説教するということです」
花子はくくくくくと笑った。
「純太ちゃんの出したクイズに答えることができない純一朗が純太ちゃんに説教するのですか。純一朗も大した父親になったわねえ」
花子の後ろに隠れていた純太が顔を出した。
「お父さん、大学生Aは一生懸命勉強したが卒業できませんでした。大学生Bは勉強はしなかったが卒業しました。社会では大学生AとBではどちらが一人前でしょうか。お父さん。答えてください。お父さんが答えてくれたら僕はお父さんの説教を喜んで聞くよ」
花子の後ろ盾があるので純太は父親の恐怖を感じなかった。純一朗をからかうように笑う純太に純一朗はよけいに腹が立った。
「下らないクイズに答える必要はない。教育とは先生が教え育て、生徒が学び育つという関係にあるのだ。学校は勉強するところだ。いいか純太。勉強するために学校はあるのだ。卒業するためにあるのではない。学校の存在を疎かにするのは許さない。純太は勉強が嫌いだからそんな屁理屈をつけて学校に行かないのだ」
純太は純一朗を哀れむ目で見た。
「かわいそうなお父さんです」
「私がかわいそうだと言うのか。自分の息子にそんなことを言われるなんて予想もしなかった」
「お父さんは病気なのです。学校先生病です。学校は卒業するためにあるのに勉強するためにあると言うのはお父さんが学校先生病になっているからです。お父さんは病気をしているために価値観が逆になっています。学校は勉強するから卒業するのでありません。勉強する生徒もしない生徒も卒業します。お父さん。もっと冷静になってください。病気を治して客観的な判断力を取り戻してください」
洋子は頷いた。真由も頷いた。花子は純一郎を見ながら「変な子だねえ。」と呟いた。
2011年02月11日
ゴドーと歩きながら 17/20
「僕もついて行っていいですか」
と言うと花子は微笑みながら、
「いいですよ」
と言って玄関から出ていった。純一郎は慌てて靴を履いて玄関を出て、花子に追いつくと花子の手を握って花子と一緒に歩いた。
家の近くの駅で汽車に乗り、それから列車に乗り換えるとどんどん景色が変わり、長い時間列車に乗り続けて、着いた所が東京の上野駅だった。人混みの中を純一郎は花子の手を強く握りながら歩いた。電車に乗り、バスに乗り、歩き、着いた所が古い店構えの江戸前寿司の割烹だった。花子は江戸前寿司が食べたくなって津軽から東京に来たのだ。江戸前寿司を食べた後に花子は気まぐれにあちらこちらを移動したが雨の降る品川駅で純一郎は花子からはぐれてしまった。
「私が自分の名前と住所を覚えていたから警察が津軽の警察に連絡し、津軽の警察が家まで連れて来たのです。私がひとりで帰れたわけではありません」
「純太ちゃんは家の住所を覚えていますか。」
「うん、覚えているよお婆ちゃん」
「それなら大丈夫ですわ。行きましょう」
「待ってくださいお母さん。フランスは日本ではありません」
「あらあらフランスは日本ではありませんよ。純一郎は変なことを言うわね。でも、フランスも日本と同じように警察はあるし警察官は通りを歩いています。フランスは日本ではありませんがフランスは日本と大した違いはありません。似たり寄ったりです。分かりましたね純一郎。純太と真由ちゃん、行きましょう」
「駄目です。純太と真由をお母さんたちと一緒に行かせるわけには行きません。おい、洋子。お前も頼みなさい」
急に話を振られた洋子は一歳の幸美を抱きながら困惑した。
「そろそろ出掛けましょう。孝一郎さん」
「待ってくださいお母さん。洋子。早く。なにか言いなさい」
洋子は言い難そうにもじもじした。
「洋子。純太と真由をシャンゼリゼ通りに連れて行くことは間違っているとお母さんに言いなさい」
「間違ったことかしら」
「当然です」
「そうですかあ」
うらめしそうに洋子は言った。
「当然だろう。なにもじもじしているのだ。堂々と言いなさい」
「でもー」
「お前は純太と真由がシャンゼリゼ通りに行ってもいいというのか」
「ううん」
「ああ、いらいらする。いつからお前は優柔不断の女になったのだ」
「言い難いことですけど」
「なにが言い難いことだ」
「そのう」
「ああ、いらいらする。早く言いなさい」
「言ってもいいですか」
「なにをだ」
「あのね、純一郎さん。お母さんがせっかくシャンゼリゼ通りで純太ちゃんと真由ちゃんに夕食をご馳走するというのだから夕食をご馳走になった方がいいのじやないかしら。ついでにシベリアのジャガイモを食べるのも悪いことではないと思うけど」
洋子の意見に純一郎は唖然とした。
「お前はなんてひどいことを言うのだ」
無責任な洋子の言葉に純一郎は怒りが込み上げてきた。
「分かったぞ。お前は純太や真由とは血が繋がっていないからそんな非道なことが言えるのだ。お前は純太と真由に愛情がないのだ。お前には失望した。結婚する時に純太と真由は自分のお腹を痛めた子供として愛しますと私に誓ったじゃないか。お前がこんなに薄情な女とは知らなかった。お前とは離婚だ」
「離婚ですか」
「ああ、離婚だ。純太と真由に愛情がない冷血なお前とは離婚だ。お前はお前と血の繋がっている幸恵だけが大事なのだ。お前は幸恵をお母さんが連れて行くと言ったら反対するに決まっている」
「反対しないわ。喜んでお願いします」
「嘘をつけ」
「嘘ではありません」
「お前は本気で純太と真由を一ヶ月以上の旅行に行かすのに賛成なのか」
「大賛成ですわ」
「幼い幸恵を一緒に連れて行くのにも賛成なのか」
「大賛成ですわ」
「嘘をつけ」
「嘘ではありませんわ」
「なんて常識のない女だ」
「え、私はしごく常識的な女です。一ヶ月以上も無料で旅行ができるのですよ。とてもすばらしいことです。あなたの海外旅行はいつも二拍三日の旅行だけ」
「二泊三日は旅行の常識だ。」
「無料で一ヶ月以上の旅行のチャンスがあるのなら乗っかるのが常識よ。そうですよね、お母さま」
「さあ、私は私が常識ですから他の常識は知りませんわ」
花子に賛同してもらいたかった洋子は花子の返事に残念そうな顔をした。
「お母さん。純太と真由を連れていくなら幸恵も一緒に連れて行ってください。洋子は賛成しています」
「お断りします」
「え、どうしてですか」
幸恵を連れて行くのに花子が反対したのに純一郎と洋子は以外だった。
「幸恵ちゃんは一歳ですよ」
「一歳なら駄目ですか」
「駄目です」
「なぜですか」
「一歳ですから」
「なぜ一歳は駄目ですか」
「一歳ですから」
「ああ、また禅問答になってしまう」
「洋子さんと一緒ならかまわなくてよ」
花子が洋子も連れて行こうとする話に純一郎は反発したが洋子は喜んだ。
「幸恵が一歳だからですか。洋子の代わりにベビーシッターを頼めばいいことです」
花子は困った顔をした。
「ベビーシッターってなんですか」
「赤ちゃんの世話をする人です」
「赤ちゃんに教育をするのですか」
「教育はしません。世話をするだけです」
「教育をしないベビーシッターは必要がありません。赤ちゃんの世話は洋子さんがします。洋子さんが一緒なら大丈夫です」
洋子は喜んだ。しかし、すぐに肩を落とした。シャンゼリゼ通り行きをあきらめなければならない現実を思い出したのだ。
「私も行きたいですわ。でも私は純一郎さんの世話がありますから行けません。とても残念です」
「そうですか。それでは幸恵ちゃんは連れて行けません」
「あ、でも。」
洋子は千歳一遇のチャンスを諦め切れなかった。洋子は純一郎を見つめ、目で訴えた。しかし、純一郎は怒った顔で洋子を睨んだ。洋子は諦めて、
「仕方がありません。あきらめます」
「それじゃ、純太君と真由ちゃん。行きましょう。」
しかし、「あきらめます。」と言ったが洋子はまたとないチャンスを諦めることができなかった。花子が純太と真由を連れて行こうとしたので、洋子は純一郎が花子たちを引き止める前に、
「お母さん、待ってください」
と花子の前に立った。
「なんですか。洋子さん」
洋子は純一郎を横目で見ながら喋り難そうに言った。
「あのう、つかぬ事を聞くのですが」
と言って言葉をつまらせた。
「なんですか、花子さん」
「あのう、純一郎さんは料理ができるでしょうか」
花子は怪訝な顔をした。
「高校を卒業してから私は純一郎と一緒に生活をしたことがありません。今の純一郎が料理をできるかどうか私は知りません。純一郎に聞いた方がいいです」
洋子は純一郎に料理ができるかどうか聞く勇気はなかった。洋子は純一郎に料理ができるかどうかを聞きたいけれど聞けないで黙って純一郎を上目使いに見ながらもじもじした。純一郎は花子が純一郎が料理をできるかどうか知らないと言ったことに怒りがこみ上げてきた。なんの前触れもなく数日間も家に戻らない母親の性で純一郎は小学生の頃から自分でご飯を炊くことを覚え、中学生の時にはおかずやお汁も一人前に作れるようになった。花子が留守にした時は父親や兄弟の食事を純一郎が作ってあげたものだ。純一郎が花子の性で料理ができるようになったのに純一郎が料理ができるかどうか知らないと花子が言ったのには腹が立った。
「お母さん。私が中学の時から一人前に料理できるのを知っていたはずではありませんか。お母さんが家にいない時は僕が家族の食事を作っていたのです」
「あら、まあ。そうなのですか」
「そうです」
「私は一度も純一郎が料理をしているところを見たことがありません。だから知らないと洋子さんに答えたのです。」
花子と純一郎の会話で純一郎が料理を作ることができることを知った洋子が嬉しくなった。
「純一郎さんは料理ができるのですね」
「純一郎は自分で料理ができると言ったのですから純一郎は料理ができるということです」
「それではお母さん。純一郎さんは洗濯はできるでしょうか」
「さあ、私は見たことがありませんから分かりません。」
「お母さんが留守にしていた時は父さんや兄弟の服の洗濯は私がやったとお母さんに報告したではありませんか」
「そう言われたことが何度もあったということは覚えています。でも、純一郎が洗濯をしている姿を私は一度も見たことがなかったので私は分かりませんと答えることしかできないのです」
「へえ、純一郎さんは炊事洗濯ができるのですね。とても素晴らしく嬉しいことですわ」
純一郎は花子に怒った。
「馬鹿にするな。洗濯なんか誰でもできる」
「掃除はできますか」
洋子は嬉しそうにしかし恐る恐る聞いた。
「掃除なら誰でもできる。お前は私を馬鹿にしているのか」
「馬鹿にはしていません。純一郎さんは私との生活では料理も洗濯も掃除もしたことがありませんから」
「それは主婦であるお前が居るからだ。私は仕事をして家族の生活費を稼ぐ。お前は炊事洗濯と子供の世話をする。夫婦が分業をすることによって安定した家庭生活は営まれるのだ」
洋子は純一郎が炊事洗濯だけでなく掃除もできるのを喜んだ。純一郎が炊事洗濯掃除ができるなら純一郎はひとりで生活できるから洋子は家を離れることができる。
「お母さん」
洋子は嬉しさを押さえきれない様子でうきうきしている。
「なんですか洋子さん」
「純一郎さんは炊事洗濯ができると言いました。そして、掃除もできると言ったのです」
花子は純一郎が炊事洗濯ができるかどうか関心がないので、
「そうですか」
とそっけなく言った。洋子はそっけない花子に接近して、
「炊事洗濯ができるということは一人で生活できるということですよね、お母さん」
と花子に同意を求めた。
「そうですか」
と花子はそっけなく言ったが洋子は花子に体をくっつくほどに接近して、
「ということは、私が純一郎さんを世話する必要はありません。私は今日からの一ヶ月間は純一郎さんの世話人であることより幸恵の世話人になります。私は幸恵の世話人としてシャンゼリゼ通りに行くことにします。ベビーシッターではなく私が幸恵の世話をするのなら幸恵はシャンゼリゼ通りに行ってもいいですよね」
「洋子さんは母親です。母親がちゃんと幸恵ちゃんを世話するのなら幸恵ちゃんの安全は確保できますから、幸恵ちゃんはシャンゼリゼ通りでもドイツでもシベリアでも行けます」
「幸恵はシャンゼリゼ通りに行くことになりました。そして私は幸恵の世話人としてシャンゼリゼ通りに行きます」
「そうですか。私はかまいません」
洋子がシャンゼリゼ通りに行くと言ったことに純一郎は激怒した。
「洋子。明後日から学校が始まるのだ。純太と真由は学校が始まる。僕も高校に出勤しなければならないのだ」
洋子は純一郎の話を聞いていなかった。
「お母さん。私は北海道のじゃがいもよりシベリアのじゃがいもがおいしいと思います。ロシアのじゃがいもは各家庭の畑で栽培していますの。つまり農家の人が自分で食べるためにじゃがいもを栽培していますのよ。ということはおいしいじゃがいもを作るのに情熱があるということです。北海道の商品のための大量栽培とは違うのです。お母さんがシベリアのじゃがいもを食べに行くと言った時、私は思わずよだれが出そうになりましたわ」
「あらら、そうなのですか洋子さん。それは楽しみが増えました。北海道のじゃがいももおいしいですけど、シベリアの農家の人が自分が食べるために栽培したじゃがいもがどんな味をするのか興味が沸いてきました」
洋子がシャンゼリゼ通りに行くだけが目的ではなく本当はシベリアまで行こうしていることに純一郎は愕然とした。
「洋子」
自分を無視して花子と話している洋子に純一郎は怒りの声を爆発させた。花子との話に熱中していた洋子には純一郎の大声は小さい声でしかないらしく少しも驚かないで、
「え」
と言って純一郎を振り向いた。
2011年02月10日
ゴドーと歩きながら 16/20
「野望というのは自覚されないものなのよ。自分が正しいという自負心が強く、平気で他人を強制し他人の自由を奪うのが野望なのよ。私は私の自由をボブに奪われるくらいなら離婚するわ」
ボブはマリーの言っていることが全然理解できなかった。しかし、離婚を避けるためにはマリーの言う通りにするしかなかった。
「分かった。僕は僕の野望を捨てる」
マリーはボブの言葉を信じることができなかった。マリーは疑いの目で睨みながら、
「本当に捨てることができるの」
と言った。マリーに睨まれてボブは萎縮した。まるでマリーが魔女に見えた。マリーの言うボブの野望をボブは野望とは思わなかったが、マリーの前では野望であると思わないわけにはいかない。ボブは自分では野望とは思えない野望を捨てることにした。つまりボブが想定している一家団欒の夢をボブは泣く泣くあきらめた。
「本当に捨てることができる」
「本心から捨てることができるの」
「本心から捨てることができる」
「嘘偽りではないわね」
「嘘偽りではない」
「嘘偽りではありませんと言って」
「嘘偽りではありません」
ボブは泣きそうな顔で答えた。マリーは納得した。
「家に帰りましょう」
マリーはリュックを背負って歩き始めた。ボブは肩をうな垂れてマリーの後ろについて行った。
仕事を終わって家に帰っても誰も迎えてくれないことが確定した。・・・・独りでわびしい夕食をしなければならない。マリーは電話をすれば玄関で待ってくれると言った。明日からは仕事が終わると家に電話をしよう。そして、全員が迎えてくれる時間に合わせて玄関を開けよう。全員が迎えてくれる時間が遅ければ公園のベンチに座って待つことにしよう。パソコンでフランクリンやミシェルの日記を読むのも悪くない。そうだ。私も日記を書こう。私の日記をフランクリンやミシェルに読ませるのだ。ラグビーが男のスポーツとして素晴らしいことを書くのだ。そうすればフランクリンがラグビーに興味を持つかも知れない。今は庭で親子のラグビーをしてくれないフランクリンだが、私の日記を読んでラグビーに興味を持つかもしれない。
夕食を家族が揃って食べるのがどんなに有意義であり、楽しいものであるかを書こう。ピクニックが楽しいこと。自然に触れ合うのが素晴らしいことも書こう。きっとフランクリンもミシェルも私の考えに賛同するだろう。よし、家に帰るとさっそくパソコンを注文しよう。私の書斎にパソコンを設置しよう。インターネットに接続してHPを作製するのだ。・・・・・・と実現不可能な夢をマリーの本当の魔力を知らないボブは思い描き、これからの家庭を楽しくしていく手順をボブは考えた。恐らくボブの粗雑な日記を息子のフランクリンが見るとフランクリンはボブを大人のくせになんて幼稚な内容だと馬鹿にするだろう。フランクリンはバーチヤルゲームのクレーン操作は得意ですでに二〇一階のビルディングの鉄骨が組める。バーチャルゲームのラグビーもうまい。バーチャルゲームの世界にはまり込んだフランクリンはボブを相手にすることはないだろう。ボブの計画が徒労に終わることはすでに決まった運命である。
しかし、ボブは自分の妄想が実現すると思ってパソコンをやることが楽しくなってきた。
哀れな運命のボブとボブを下僕にしたマリーの二人は地平線の彼方に消えていった。
純太は花子の袖を振った。花子は純太を見た。
「おばあちゃん。フランスに行くの」
「フランスというよりシャンゼリゼ通りに行くの」
「僕も行きたいな」
「純太ちゃんはシャンゼリゼ通りに行きたいの」
「うん」
「それじゃあ一緒に行きましょう」
「うん。」
「待ってくださいお母さん。勝手に私の子供を連れて行かないで下さい」
「真由も行きたいな」
「そう真由ちゃんも行きたいの」
「うん」
「それじゃあ真由ちゃんも一緒に行きましょう」
「お母さん。勝手に私の子供たちを連れて行かないでください」
「連れて行ってはいけないの」
「私たちは明日の朝には日本に帰ります。明後日から学校が始まります。お母さんは純太と真由を明後日の早朝に家に連れて帰れますか」
「それは無理です。シャンゼリゼ通りの次はドイツに行くの。ドイツの次は赤の広場。赤の広場の次はシベリア。早ければ一ヵ月後に、遅くても来年の春までには純太と真由ちゃんを純一郎の家に連れて行けるわ」
「それでは純太と真由をシャンゼリゼ通りに連れて行くことは許されません」
「どうしてなの」
「純太と真由を長期間学校を休ませることになります。学校は一日も休むことは許されないことです」
花子は予想もしていなかった理由に目をまん丸にして純一郎を見つめた。
「学校を休んだらいけないのですか」
花子が学校を休むことに驚いたので純一郎は花子の常識のなさにあきれてしまった。
「当然ではありませんか。勉強が遅れてしまいます」
花子はなあんだという風に微笑んだ。
「それじゃ家庭教師も一緒に連れて行きましょう。孝一郎さん。純太と真由ちゃんの家庭教師を手配できるかしら」
「いつまでに手配すればいいのだ」
「あさって学校が始まるというからあさってまでに手配すればいいと思いますわ」
「日本人の家庭教師とフランス人の家庭教師ではどちらがいいのかな」
「僕はフランス人の家庭教師がいい」
「わたしもフランス人がいいわ」
「純太ちゃんも真由ちゃんもフランス人の家庭教師がいいんですって」
「分かった。それではシャンゼリゼ通りのレストランでフランス人の家庭教師と夕食を食べよう。」
純一郎は話が勝手に進んでいくのに慌てふためいた。
「ちょ、ちょっと待ってください。家庭教師をつければいいということで解決する問題ではありません。一ヶ月以上も学校を休むということを私は許しません」
「どうして」
「遊びのために一ヶ月以上も学校を休むなんて許されることではありません」
「家庭教師をつけて勉強をさせます。学校だって勉強したり遊んだりします。これで問題はクリアです」
「駄目です」
「どうして駄目ですか」
「お母さんも分かっているじゃないですか。小学生が一ヶ月以上も学校を休むなんていけないことです」
「知らなかったわ。そうなんですか」
「そうなんです」
「そうなの純太ちゃん」
「そうなのかなあ」
純太は腕組みをして考えた。
「違うと思うよお婆ちゃん」
「どうして違うの」
「同じクラスの智ちゃんはね、病気で三ヶ月以上休んだことがあったんだ。でもなんにも問題なかったし進級もできた。だから三ヶ月間休んでもなんの問題もないと思うよ」
「本当なの」
「本当だよ」
純太に純一郎は激怒した。
「高校教諭の息子のくせになんてことを言うのだ。お前は私に恥をかかす気か」
「どうしてですかお父さん」
「高校教諭の息子が学業を怠けて一ヶ月以上も旅行したということがばれたら私は世間の笑いものだ」
「お父さんが笑いものになるの」
「そうだ」
「ぼくも笑いものになるの」
「当然だ」
「でも安心してお父さん。ぼくは笑いものになっても平気だから」
純一郎は唖然とした。
「お父さんも頑張って、笑いものになっても平気になって。」
「そんな問題ではないだろう」
花子は純太に聞いた。
「純太ちゃんは学校を休んで世間の笑いものになっても平気なの」
「平気だよ。お婆ちゃん」
「そう。純太ちゃんは偉いわ。純太ちゃんが平気ならなんの問題もないわ。シャンゼリゼ通りに行きましょう」
花子は純太の手を取って歩こうとした。純一郎は慌てて二人の前に立ちふさがった。
「駄目です」
「どうしてですか」
花子は純一郎が前に立ちふさがったのが理解できなかった。
「どうしてでもです。シャンゼリゼ通りで夕食を取り、シベリアでジャガイモを食べるために学校を長期欠席するというのは前代未聞です。余りにも常識から外れています。」
「そうかしら」
「そうです」
花子は迷った。
「純太ちゃん。一緒に旅行はできないわ」
「どうしてなのお婆ちゃん」
「さあ。私は知りません。純一郎がどうしても駄目というから、残念だけど駄目ということなの」
純太はがっかりして下を向いた。
「それじゃ仕方がありません。シャンゼリゼ通りで夕食を食べることだけにします。純一郎はシャンゼリゼ通りで食事をするのが嫌なら食事をしなくてもいいですわ。私達の食事が終わった頃に合わせて純太ちゃんと真由ちゃんをお迎えに来てください」
「え、ぼくが迎えに行くのですか」
「そうです」
「なぜ私がわざわざシャンゼリゼまで純太と真由を迎えにいかなければならないのですか」
「純一郎は純太ちゃんと真由ちゃんの父親ですから、当然です」
「それは出来ません」
「なぜできないのですか」
「私は学校に行かなければならないのです。純太を迎えに行けば学校を休まなければなりません。高校教諭として許されない行為です」
「そうですか」
「当然のことです」
「困ったわね」
花子は純太と真由に聞いた。
「純太と真由ちゃんはシャンゼリゼ通りから自分のお家まで帰れるかしら」
純太と真由は迷う様子もなく平然と答えた。
「帰れるよ、お婆ちゃん」
「帰れるわ、お婆ちゃん」
「そう。純太と真由ちゃんはシャンゼリゼ通りからお家に帰れるわね。それでは行きましょう」
花子は純太と真由の手を取り、歩き始めた。
「待ってくださいお母さん。子供の純太と真由がフランスから日本の家に二人だけで帰れると本気に思っているのですか」
「本気もなにも純太ちゃんと真由ちゃんは帰れるというのだから帰れるのでしょう。そうでしょう純太ちゃん」
「そうだよ。お婆ちゃん」
「ほら、本人が言うのだから間違いないわ」
花子がすんなりと純太の話を信じることに純一郎はあきれた。
「お母さんは子供の言うことを鵜呑みにするのですか。フランスのシャンゼリゼ通りから子供である純太と真由の二人だけで日本に帰れるはずがありません」
「そうかしら」
「そうです」
花子は純一郎を疑う目で見た。
「そう言えば純一郎だって五歳の時、雨の降る品川駅から津軽までたった一人で帰って来れたじゃありませんか。」
花子の話に純一郎は苦い過去を思い出した。
家族が津軽に住んでいた時、花子は「ちょっと出かけて来ます。」と言って数日も帰って来ないことが度々あった。その日も台所で洗い物をしている時にふっと思い出したように花子は鏡台に行き薄化粧をすると外行きの着物を着て家を出て行こうとした。
「お母さん。どこに行くの」
と純一郎が聞くと、
「ちょっとそこまで」
と言った。花子は「ちょっとそこまで」と言って二、三日は家に帰らないことが何度もあった。それを知っていた純一郎は母親が化粧をして綺麗な着物を着けているので母親が遠出をすると直感した。
「ちょっとそこまでのそこはどこなのですかお母さん」
純一郎はしつこく聞いた。
「ちょっとそこまでのそこということはちょっとそこまでのそこよ、純一郎」
純一郎は五歳の子供だったが花子のいうちょっとそこが遠いそこであることはなんとなく予想できた。
2011年02月09日
ゴドーと歩きながら 15/20
マリーは間を置いてから言った。
「その考えはねボブ。ボブが家族の中心であると考えている証拠なのよ」
「僕は仕事をやり、フランクリンとミシェルは学校に行っている。家族全員が集まるのは夜だ。家族の意思疎通ができる時間は夕食の時じゃないか。お互いの心を開いて話し合い理解し合う。そして、子供が悩んでいる時は人生の先輩としてアドバイスをしてあげる。それが家族の愛を深めていくことになる。それのどこがいけないんだ。僕たちは家族だ。お互いが理解しあい支えあい励ましあっていかなくてはならないのは当然だ。そうではないのかマリー」
「そうかしら」
「違うのか」
「もっともらしい理屈だけど、それは亭主中心主義の発想だわ」
「そうじゃない。それは家族のあるべき姿だ。そうじゃないのか、マリー」
マリーはボブから顔を背けた。
「ボブには理解できないことかも知れないわね」
「僕にはなにが理解できないのだ。僕はマリーを愛し子供たちを愛し、マリーや子供たちを理解する努力をずっとやってきた。そんな僕にマリーは平気でそんなことを言う」
「ボブが理解しようとしているのはボブにとって都合のいい面だけの私たちよ。ボブにとって都合の悪い面をボブは理解しようとしなかった」
「そうなのか。へえ。僕が理解できない面というのはどういうことか説明してもらおう」
マリーはため息をついた。
「私はボブの妻である前にマリーという一人の人間なのよ。私の人間としての自由を夫という権力で束縛する権利はボブにはないわ。フランクリンもミシェルも人間よ。ボブの子供であるという義務より一個の人間としての自由が優先するわ」
「自由だから夕食も自由に取るということか」
「そうよ」
「それでは家族としての愛はどうなるのだ」
「押し付けの家族愛なんか無い方がいい」
ボブは家族崩壊を当然と考えているマリーに絶句した。
「僕は家族の生活を支えているのになにも報われない。食事さえ自分で作らなければならない。まるで無人島生活をしているようだ。家には妻が居て子供が居るというのに独身生活と同じだ」
ボブの嘆きにマリーはうんざりした。
「仕方がないわ。夕食は作ってあげる。ボブが夕食をなににするか決めて。そして、前の日に材料とレシピを準備して」
「え、僕がレシピを作って料理の材料まで準備するというのか」
「そうよ。ボブが材料とレシピを準備するならボブの望む料理を作ってあげるわ」
「仕事をしている僕が夕食の料理をなににするかを考えて、レシピも材料も僕が準備するというのか」
「そうよ。ボブ」
「仕事をしている僕にそんな面倒なことができるはずないじゃないか」
「できないはずはないわ。やろうと思えばできるものよ。本当はやる気がないからできないとボブは言うのよ。努力するかしないかの問題よ」
「その言葉はマリーにそのままお返しする。マリーもやる気がないから夕食を作らないのだ。作る気になれば作れるということだろう」
「そうよ。作ろうと思えば毎日作れるわ。でも、夕食を作るのにもううんざりしているの。うんざりのうんざりなの。毎日ボブが食べたい食事を考え、味付けや料理の種類に悩んでボブが満足するための料理を作るのにはうんざりしているの。もう、ボブのために私だけで考えて夕食を作る気にはなれない。私はボブじゃないもの。ボブがなにを食べたいか考えるのに苦労するのは当然だわ。もうボブの夕食のために考え悩む時間は持ちたくないの。そんな無意味な時間はパソコンをする時間に使った方がいいわ。夕食にどんな料理を作るかを考えることは私の自由な時間が奪われるということなの。だから、ボブが料理の材料を準備してくれるなら作ってあげる。私には家族の一員としての義務があるからボブのために私の自由を犠牲にしなければならない時間も作らなければならないわ」
「食事を作ることが自由を犠牲にするというのか。僕にはそんな考えは理解できない。マリー。君はフランクリン、ミシェル、グラマンの母親であり、僕の妻なのだよ。僕らは家族なのだよ。家族のために働くことを自分の自由を犠牲にするという発想はおかしい。マリーはいつからエゴイストになったのだ」
「私がエゴイストですって。冗談ではないわ。なぜ、ボブのために私の自由を犠牲にしなくてはならないの」
「ゲームをするのが自由という名の権利だというのか」
「そうよ」
「遊びを自由の権利呼ばわりするのはおかしい。それは詭弁だよ」
「賞金乱数ゲームは知的ゲームよ。勝利すれば一万ドルが手に入るのよ。ちゃんとした労働だわ。ボブが考えているゲームとは質が違うわ」
ゲームを労働だと言ったのでボブはマリーをせせら笑った。
「よく聞いてボブ。賞金乱数バトルゲームは本当は単なる乱数ではないの。A欄はオーストラリアの歴代の歴史的人物や大統領や議員の誕生年や誕生日を当てる。B欄は世界の歴史的人物の誕生年や誕生日を当てる。アメリカ、ヨーロッパ、アジアなど世界中の歴史的人物の誕生日が対象なのよ。誕生日を記憶していればいるほどゲームを有利にすることができるのよ。何千人もの誕生日を覚えるのは大変なことなのよ。私は五千人以上の歴史的人物の誕生日を覚えているわ。ゲームだからといって馬鹿にしないで。
A欄とB欄をクリアすると最後はC欄。C欄は完全な乱数ゲーム。A欄とB欄を早い時間でクリヤーすればするほど有利になるわ。今日はA欄とB欄を早い時間でクリヤーしたからC欄の乱数字を当てる可能性が高かった。もう少しで一万ドルの賞金が手に入るところだった。ああ、くやしい。ボブ。あなたは私の邪魔をした。ボブは私が一万ドルを獲得するチャンスの邪魔をしたのよ。賞金はボブの給料の何倍ものお金だったのよ。賞金乱数バトルゲームはボブの仕事よりも何倍もの知識と技術の高いゲームなのよ」
「ほう。僕のクレーン技術より上だと言うのか」
「そうよ」
「私よりマリーの方が頭脳も技術も上だと言うのか」
「当然よ。比べ物にならないくらいよ」
「あははは。お笑いだ」
ボブはマリーの主張がばかばかしかった。
「認めないなら認めないでいいわ。ボブが私を理解する限界だと私は認識するだけだから。
フランクリンもミシェルもHPを作って日記を掲載しているわ。フランクリンやミシェルのことを知りたければHPの日記を見ればいいの。フランクリンやミシェルに言いたいことがあればHPの掲示板に書き込みすればいいだけ。なぜ、夕食の時に私と子供たちが集まってボブを囲みながら話さなければならないの。会話はメールやHPの掲示板で充分にできるのよ。それなのにわざわざ夕食時間をあなたの帰宅時間に合わせて皆が集まらなければならないというの。それは理不尽なことよ。それは強制された親子の対話だわ。ボブ。もっと自由な発想をやってよ。フランクリンやミシェルと話し合いたいのなら会話の時間を夕食に特定しないで朝でも昼でも夜でも自由にメールを送ったり、HPの掲示板を読んだり書き込みをしたりしたらいいの。ボブはもっと自由に書きたいことを書きたい時に書けばいいことなのよ。二人のHPは携帯電話でも見れるのだからボブも見ればいいじゃない」
「仕事をしている時には見れない。僕がくつろいだ状態で家族と話ができる時間帯は家にいる時だ。家にいるのだから話をすればいいじゃないか。わざわざパソコンでフランクリンやミシェルのHPを見る必要はないじゃないか。それとも僕も僕専用の個室を造ってパソンコンをやれと言うのか」
ボブは皮肉の積もりで言ったのだがマリーは素晴らしい提案だとばかりに喜んだ。
「いいアイデアだわ。そうよ。ボブもパソコンを買えばいいのよ。素晴らしい考えだわ」
「冗談じゃない。なぜ、同じ屋根の下にいるのにパソコンで会話しなければならないのだ。そんなことをしたら家の中は冷たくなる。もう、すでに冷たくなっている。会話のない一家団欒の場が消えた家で僕がどんなに孤独に陥っているかマリーは知らないのか」
「私もフランクリンもミシェルも孤独ではないわ。とても充実しているわ。ボブが孤独を感じているのならそれはボブだけの問題だわ。私達の問題ではない。ボブは孤独を癒すために私達みんなに協力を強制することはできない。それは横暴であり私たちの人間性の犠牲を要求することになるわ。一人の人間のために四人の人間が犠牲になるのは非合理的だわ。私達がボブに合わせた家庭生活をするべきではなく、ボブが私達に合わせた生活をするべきだわ」
「僕も僕専用の個室を造ってパソンコンをやれと言うのか」
「そうよ。素晴らしいアイデアよ」
「ネットでフランクリンとミシェルの日記を読み、メールのやり取りをやれというのか」
「そうよ。なんて素晴らしいことでしょう」
ボブは呆れて天を仰いだ。
「仕事で疲れて帰って来ても誰も迎えてくれない。お帰りのキスを誰もしない。シャワーを浴びて、インスタント食品をレンジで温めて独りぽっちのテーブルで食べる。それから、個室に入りパソコンのスイッチを入れて、フランクリンとミシェルの日記を見る。それから、フランクリンとミシェルにメールを送る。眠るまでパソコンと睨めっこする・・・・・・僕にそんな生活をやれといいうのか」
「おおボブ。やっと分かってくれたのね。キスがしたければキスをしたい人の部屋を回ればいいことよ。私はいつでも歓迎よ。でもパソコンから離れることができなかったらキスを待ってもらうことになるけど。それは仕方がないことよ」
「パソコンをやるのは御免だ」
「そう」
「うんざりだ」
とボブは言った。
「そう。うんざりなの。とても残念だわ。それじゃ、パソコンが嫌いならテレビを見るのもいいし、ラグビーのビデオを見るのもいい。ボブの好きなことをすればいいのよ。玄関でキスをしたいのならできないことはないわ。携帯電話で帰宅時間をみんなに知らせるの。ボブが帰宅する時間に三人の都合がつかなかったら、時間を調整すればいい。三人が玄関に行ける時間に合わせてボブが帰ってくればいいのよ。どう。いいアイデアでしょう」
「もし、三人の誰かが夜の十時にしか玄関に来れない時は僕は玄関の外で五時間も立っていなければならないということか」
「それはボブの自由だわ。私とフランクリン、ミシェル、グラマンの四人が玄関に来ないと満足できないのなら、全員が集まることができる時間にボブは合わせないといけないわ。全員でなくてもいいのなら長い間待つことはないわ。私とグラマンでいいのなら待たせないと思う。私はあなたの妻だからあなたに協力する努力は惜しまないわ。三時間以上は待たせない約束をしてもいいわよ」
ボブはあきれ返って首を振った。
「なんてばかばかしい話だ」
「離婚しましょう」
予想もしていなかったマリーの言葉にボブは自分の耳を疑った。
「え、今なんと言った」
ボブは聞き返した。
「離婚しましょうって言ったの」
マリーは涼しい顔をしていた。
「本気ではないだろうな」
「勿論本気よ」
ボブはうろたえた。
「不満があるのはマリーではなく僕の方だ。離婚を主張するとすれば僕の方だ」
「それならボブが離婚を主張しなさい。私は即OKするわ」
「離婚の悲劇を避けるために僕達は血のにじむような努力をしたのではなかったのか。徒歩旅行に出てマリーのパソコン病を治すのが目標だったのじゃないのか」
「ボブの口車に乗せられて騙されるところだったわ。私は病気ではありません。むしろボブの方が病気なのよ。アナログ的な亭主関白的家庭団欒病という病気なのよ。もう、病気のボブに強制されて生きるのはお断りよ。だから離婚しましょう」
「いやだ。離婚なんかしないぞ」
「私とフランクリン、ミシェル、グラマンの生活はとてもうまくいっているの。とてもうまくいっている生活をボブは破壊しようとしているのだわ。私達は私達の自由と幸せを守る権利があります。ボブは家族の独裁者になりたいのよ。自由を圧迫する独裁者に私は屈しない。私達の自由と幸せを守るために私はボブに離婚を宣告するわ」
「それは横暴だよ」
「横暴なのはボブよ。私は携帯電話で連絡すれば玄関に出てあげるという妥協案を出したし、ボブにパソコンを勧めて家庭融和の方法も提案したわ。しかし、ボブは私の誠意ある妥協案を断った。ボブは自分の欲望を私達に強制するだけ。妥協ができないのなら離婚しか解決する方法はないわ。家に帰って離婚の手続きをしましょぅ。慰謝料と子供の養育費は払ってね。それさえきちんとしてくれれば私はひとことも文句を言わないわ」
ボブは毅然と話すマリーにおろおろした。
「待ってくれ。離婚をしないでくれ」
「離婚するのが正しい選択なのだわ。ボブが妥協しないのならそれ以外の方法はないわ」
「こんなことで離婚するのはおかしい。離婚の決定的な理由にはならない。僕はバラバラになってしまった家庭を元のアットホームな家庭に戻そうとしているだけだ。夕食をみんな揃って食べ、休みの日はみんなでピクニックをするようにしたいと願っているだけなのだ。なぜそれが離婚の理由になるんだ。家庭を幸せにしようとしているのに離婚を宣告されるなんて狂っているよ」
「私達は幸せよ。不幸なのはボブだけよ。私達の幸福はボブの不幸。ボブの幸福は私達の不幸。ボブの幸福と私達の幸福は反比例の関係なのよ。ボブの家庭像と私たちの家庭像は敵対関係にあるのよ。だからボブがボブだけの幸福を得ようとして私達を強制するのなら、それは強制された幸福。奴隷的幸福だわ。ボブは頑固で分からず屋なのよ。もう離婚するしかないわ」
「マリー。離婚するのは勘弁してくれ」
「ボブの気持ち次第よ」
「僕はどうすればいいのだ」
「家族の中で王様になろうという野望を捨てることね」
「僕にそんな野望なんてないよ」
ボブは泣きべそをかき、マリーはボブの無自覚に呆れた。
2011年02月08日
ゴドーと歩きながら 14/20
マリーは間を置いてから言った。
「その考えはねボブ。ボブが家族の中心であると考えている証拠なのよ」
「僕は仕事をやり、フランクリンとミシェルは学校に行っている。家族全員が集まるのは夜だ。家族の意思疎通ができる時間は夕食の時じゃないか。お互いの心を開いて話し合い理解し合う。そして、子供が悩んでいる時は人生の先輩としてアドバイスをしてあげる。それが家族の愛を深めていくことになる。それのどこがいけないんだ。僕たちは家族だ。お互いが理解しあい支えあい励ましあっていかなくてはならないのは当然だ。そうではないのかマリー」
「そうかしら」
「違うのか」
「もっともらしい理屈だけど、それは亭主中心主義の発想だわ」
「そうじゃない。それは家族のあるべき姿だ。そうじゃないのか、マリー」
マリーはボブから顔を背けた。
「ボブには理解できないことかも知れないわね」
「僕にはなにが理解できないのだ。僕はマリーを愛し子供たちを愛し、マリーや子供たちを理解する努力をずっとやってきた。そんな僕にマリーは平気でそんなことを言う」
「ボブが理解しようとしているのはボブにとって都合のいい面だけの私たちよ。ボブにとって都合の悪い面をボブは理解しようとしなかった」
「そうなのか。へえ。僕が理解できない面というのはどういうことか説明してもらおう」
マリーはため息をついた。
「私はボブの妻である前にマリーという一人の人間なのよ。私の人間としての自由を夫という権力で束縛する権利はボブにはないわ。フランクリンもミシェルも人間よ。ボブの子供であるという義務より一個の人間としての自由が優先するわ」
「自由だから夕食も自由に取るということか」
「そうよ」
「それでは家族としての愛はどうなるのだ」
「押し付けの家族愛なんか無い方がいい」
ボブは家族崩壊を当然と考えているマリーに絶句した。
「僕は家族の生活を支えているのになにも報われない。食事さえ自分で作らなければならない。まるで無人島生活をしているようだ。家には妻が居て子供が居るというのに独身生活と同じだ」
ボブの嘆きにマリーはうんざりした。
「仕方がないわ。夕食は作ってあげる。ボブが夕食をなににするか決めて。そして、前の日に材料とレシピを準備して」
「え、僕がレシピを作って料理の材料まで準備するというのか」
「そうよ。ボブが材料とレシピを準備するならボブの望む料理を作ってあげるわ」
「仕事をしている僕が夕食の料理をなににするかを考えて、レシピも材料も僕が準備するというのか」
「そうよ。ボブ」
「仕事をしている僕にそんな面倒なことができるはずないじゃないか」
「できないはずはないわ。やろうと思えばできるものよ。本当はやる気がないからできないとボブは言うのよ。努力するかしないかの問題よ」
「その言葉はマリーにそのままお返しする。マリーもやる気がないから夕食を作らないのだ。作る気になれば作れるということだろう」
「そうよ。作ろうと思えば毎日作れるわ。でも、夕食を作るのにもううんざりしているの。うんざりのうんざりなの。毎日ボブが食べたい食事を考え、味付けや料理の種類に悩んでボブが満足するための料理を作るのにはうんざりしているの。もう、ボブのために私だけで考えて夕食を作る気にはなれない。私はボブじゃないもの。ボブがなにを食べたいか考えるのに苦労するのは当然だわ。もうボブの夕食のために考え悩む時間は持ちたくないの。そんな無意味な時間はパソコンをする時間に使った方がいいわ。夕食にどんな料理を作るかを考えることは私の自由な時間が奪われるということなの。だから、ボブが料理の材料を準備してくれるなら作ってあげる。私には家族の一員としての義務があるからボブのために私の自由を犠牲にしなければならない時間も作らなければならないわ」
「食事を作ることが自由を犠牲にするというのか。僕にはそんな考えは理解できない。マリー。君はフランクリン、ミシェル、グラマンの母親であり、僕の妻なのだよ。僕らは家族なのだよ。家族のために働くことを自分の自由を犠牲にするという発想はおかしい。マリーはいつからエゴイストになったのだ」
「私がエゴイストですって。冗談ではないわ。なぜ、ボブのために私の自由を犠牲にしなくてはならないの」
「ゲームをするのが自由という名の権利だというのか」
「そうよ。」
「遊びを自由の権利呼ばわりするのはおかしい。それは詭弁だよ」
「賞金乱数ゲームは知的ゲームよ。勝利すれば一万ドルが手に入るのよ。ちゃんとした労働だわ。ボブが考えているゲームとは質が違うわ」
ゲームを労働だと言ったのでボブはマリーをせせら笑った。
「よく聞いてボブ。賞金乱数バトルゲームは本当は単なる乱数ではないの。A欄はオーストラリアの歴代の歴史的人物や大統領や議員の誕生年や誕生日を当てる。B欄は世界の歴史的人物の誕生年や誕生日を当てる。アメリカ、ヨーロッパ、アジアなど世界中の歴史的人物の誕生日が対象なのよ。誕生日を記憶していればいるほどゲームを有利にすることができるのよ。何千人もの誕生日を覚えるのは大変なことなのよ。私は五千人以上の歴史的人物の誕生日を覚えているわ。ゲームだからといって馬鹿にしないで。
A欄とB欄をクリアすると最後はC欄。C欄は完全な乱数ゲーム。A欄とB欄を早い時間でクリヤーすればするほど有利になるわ。今日はA欄とB欄を早い時間でクリヤーしたからC欄の乱数字を当てる可能性が高かった。もう少しで一万ドルの賞金が手に入るところだった。ああ、くやしい。ボブ。あなたは私の邪魔をした。ボブは私が一万ドルを獲得するチャンスの邪魔をしたのよ。賞金はボブの給料の何倍ものお金だったのよ。賞金乱数バトルゲームはボブの仕事よりも何倍もの知識と技術の高いゲームなのよ」
「ほう。僕のクレーン技術より上だと言うのか。」
「そうよ。」
「私よりマリーの方が頭脳も技術も上だと言うのか」
「当然よ。比べ物にならないくらいよ」
「あははは。お笑いだ」
ボブはマリーの主張がばかばかしかった。
「認めないなら認めないでいいわ。ボブが私を理解する限界だと私は認識するだけだから。
フランクリンもミシェルもHPを作って日記を掲載しているわ。フランクリンやミシェルのことを知りたければHPの日記を見ればいいの。フランクリンやミシェルに言いたいことがあればHPの掲示板に書き込みすればいいだけ。なぜ、夕食の時に私と子供たちが集まってボブを囲みながら話さなければならないの。会話はメールやHPの掲示板で充分にできるのよ。それなのにわざわざ夕食時間をあなたの帰宅時間に合わせて皆が集まらなければならないというの。それは理不尽なことよ。それは強制された親子の対話だわ。ボブ。もっと自由な発想をやってよ。フランクリンやミシェルと話し合いたいのなら会話の時間を夕食に特定しないで朝でも昼でも夜でも自由にメールを送ったり、HPの掲示板を読んだり書き込みをしたりしたらいいの。ボブはもっと自由に書きたいことを書きたい時に書けばいいことなのよ。二人のHPは携帯電話でも見れるのだからボブも見ればいいじゃない」
「仕事をしている時には見れない。僕がくつろいだ状態で家族と話ができる時間帯は家にいる時だ。家にいるのだから話をすればいいじゃないか。わざわざパソコンでフランクリンやミシェルのHPを見る必要はないじゃないか。それとも僕も僕専用の個室を造ってパソンコンをやれと言うのか」
ボブは皮肉の積もりで言ったのだがマリーは素晴らしい提案だとばかりに喜んだ。
「いいアイデアだわ。そうよ。ボブもパソコンを買えばいいのよ。素晴らしい考えだわ。」
「冗談じゃない。なぜ、同じ屋根の下にいるのにパソコンで会話しなければならないのだ。そんなことをしたら家の中は冷たくなる。もう、すでに冷たくなっている。会話のない一家団欒の場が消えた家で僕がどんなに孤独に陥っているかマリーは知らないのか」
「私もフランクリンもミシェルも孤独ではないわ。とても充実しているわ。ボブが孤独を感じているのならそれはボブだけの問題だわ。私達の問題ではない。ボブの孤独を癒すために私達みんなに協力を強制することはできない。それは横暴であり私たちの人間性の犠牲を要求することになるわ。一人の人間のために四人の人間が犠牲になるのは非合理的だわ。私達がボブに合わせた家庭生活をするべきではなく、ボブが私達に合わせた生活をするべきだわ。」
「僕も僕専用の個室を造ってパソンコンをやれと言うのか。」
「そうよ。素晴らしいアイデアよ。」
「フランクリンとミシェルの日記を読み、メールのやり取りをやれというのか。」
「そうよ。」
ボブは呆れて天を仰いだ。
「仕事で疲れて帰って来ても誰も迎えてくれない。お帰りのキスを誰もしない。シャワーを浴びて、インスタント食品をレンジで温めて独りぽっちのテーブルで食べる。それから、個室に入りパソコンのスイッチを入れて、フランクリンとミシェルの日記を見る。それから、フランクリンとミシェルにメールを送る。眠るまでパソコンと睨めっこする・・・・・・僕にそんな生活をやれといいうのか」
「おおボブ。やっと分かってくれたのね。キスがしたければキスをしたい人の部屋を回ればいいことよ。私はいつでも歓迎よ。でもパソコンから離れることができなかったらキスを待ってもらうことになるけど。それは仕方がないことよ」
「パソコンをやるのは御免だ」
「そう」
「うんざりだ」
とボブは言った。
「そう。うんざりなの。とても残念だわ。それじゃ、パソコンが嫌いならテレビを見るのもいいし、ラグビーのビデオを見るのもいい。ボブの好きなことをすればいいのよ。玄関でキスをしたいのならできないことはないわ。携帯電話で帰宅時間をみんなに知らせるの。ボブが帰宅する時間に三人の都合がつかなかったら、時間を調整すればいい。三人が玄関に行ける時間に合わせてボブが帰ってくればいいのよ。どう。いいアイデアでしょう」
「もし、三人の誰かが夜の十時にしか玄関に来れない時は僕は玄関の外で五時間も立っていなければならないということか」
「それはボブの自由だわ。私とフランクリン、ミシェル、グラマンの四人が玄関に来ないと満足できないのなら、全員が集まることができる時間にボブは合わせないといけないわ。全員でなくてもいいのなら長い間待つことはないわ。私とグラマンでいいのなら待たせないと思う。私はあなたの妻だからあなたに協力する努力は惜しまないわ。三時間以上は待たせない約束をしてもいいわよ」
ボブはあきれ返って首を振った。
「なんてばかばかしい話だ」
「離婚しましょう」
予想もしていなかったマリーの言葉にボブは自分の耳を疑った。
2011年02月07日
ゴドーと歩きながら 13/20
と唸った。ボブを睨むマリーの顔はメドゥーサのように恐ろしい顔になり、目はボブを射殺すほどの迫力があった。ボブはマリーの頭に八匹のヘビが蠢いているような錯覚を覚えた。ボブはメドゥーサのような形相をしたマリーが恐ろしくなって手を離した。マリーは「ウーウー。」と獣のような声を発しながらキーを叩き続けた。C隣の上にあるタイムウォッチが30、29、28・・・・と〇に近づいていく。マリーの獣のよう声ばますます大きくなり、キーを叩く速さもアップしていった。タイムウォッチの数字が8、7、.6となった時、マリーは「ウァー。ウォー。ワー。」などと気が狂ったような叫び声をあげてキーを叩いた。しかし、タイム表示板はマリーの懸命なキー叩きを嘲笑うように〇を表示して止まった。三分間全速力で走ったマリーは疲れがどっときて、ベンチの背もたれに寄りかかって空ろな目をして動かなくなった。
「マリー」
ボブは目を開けたまま眠っているように動かない虚脱状態のマリーの名を呼んだ。ボブが何度も呼ぶ声にマリーはやっと正気に戻った。
「ボブ。私は疲れているの。休ませて」
マリーはベンチの背に寄りかかり目を瞑った。ボブはマリーを呼んだ。耳の側でボブが大声で「マリー。起きろ。」と呼んだのでマリーは再び目を開いた。
「何故だ何故だ。パソコンに手を触れないと約束したのは今日の朝だ。一日さえも経過していないというのにマリーはパソコンに手を触れた。何故だ何故だ」
マリーはうんざりした顔をして、頭を掻きながら再び目を瞑った。
「僕にはマリーの気持ちが理解できない。マリー、起きろ。起きて僕に釈明をするのだ」
「うるさいわ。静かにして」
マリーは目を瞑ったまま言った。
「マリーは僕にうるさいと言う権利はない。マリーは僕との約束を破った。マリーには釈明する義務がある。さあ、目を開いて釈明をしてみろ。」
「うるさいなあ。白豚野朗。静かにしろよ。」
ボブはマリーのあばずれのような言い方に激しいショックを受けたが、すぐに激しい怒りが込み上げてきた。
「マリー、目を開けなさい」
ボブはマリーの首を締めた。
「苦しい。止めて」
ボブは手を離した。マリーは咳をした。マリーは我に帰りベンチに座っている自分に驚いた。
「あら、なぜ私はここに居るの。なぜ私はベンチに座わっているの。このノートパソコンはなんなの」
マリーは膝の上にノートパソコンがあるのに気付いた。隣には孝一郎が座っている。マリーは孝一郎のノートパソコンを膝の上に置いてあることに気づき、ノートパソコンを孝一郎に返した。
「すみません」
孝一郎はマリーのキーボードの目にも止まらぬ指捌きに感心した。
「いやあ、素晴らしいですなあマリーさん。マリーさんの指さばきの素晴らしさに私は思わず拍手しました。マリーさんの指は魔法の指です。神業の指捌きですなあ。本当にすごかった。あんなに早くキーを打つ人は生まれて初めて見ました。うらやましい。あれだけの速さでキーを打つことができれば、インターネット株売買で何百万と儲けるのは簡単です。私はキーを打つのが遅いからチャンスを逃し続けている。マリーさんの手が羨ましい」
マリーは自分がパソコンを操作した記憶を失っていた。
「私はコーさんのパソコンを使ったのですか」
「そうですよ。覚えていないのですか。まあ、人間は集中の度合いが高ければ高いほど記憶に残らないものです。マリーさんは賞金乱数バトルとかというサイトで四桁の数字を目にも止まらぬ速さで打っていました」
賞金乱数バトルをやったことを思い出したマリーは「キャッ。」と叫んで口を覆った。パソコンをやったということはボブはとても怒っているはずだ。マリーが恐る恐るボブを見るとボブはマリーを睨んでいた。マリーはボブの怒りに目を伏せた。
「マリー。僕の目を見て。なぜ、リュックを放り投げて五キロも走り続けてここに戻ったのだ。ちゃんと説明してくれ」
「ごめんなさいボブ」
「謝る前に僕が納得いくように説明してくれ」
「ごめんなさいボブ。なぜ、私がここに居るのか。私には分からない。だから、謝ることしかできないの。ごめんなさいボブ」
ボブはマリーの言葉を鵜呑みにできなかった。突然、マリーはリュックサックを放り投げて走り出した。「マリー。」と何度も呼んだのにマリーは一度も振り返らないで五キロの道をひたすらに走り続けた。マリーの足は速くてボビーはマリーを掴まえることができなかった。ボブは走りながら必死にマリーの名を呼んだが、マリーはボブの声を無視して走り続けた。マリーがどこに向かって走っているのかボブにはわからなかった。
なんと、マリーは孝一郎のノートパソコンに向かって走っていた。マリーは賞金乱数バトルという三分間のインターネットゲ―ムをやるためにリュックを放り出し、ボブに背を向け一目散に五キロの道を走ったのだ。ボブはマリーの気持ちが理解できなかったし、ボブを無視し続けたマリーを許すことはできなかった。
「僕はマリーが謝まるだけでは納得できない。絶対にだ。僕達夫婦が一週間も討論し続けたのはなんのためだったのだ。崩壊した家族生活を修復するためではなかったのか。激しい夫婦討論の結論としてマリーは二度とパソコンに手を触れないという結論に達した。僕は一週間の有給休暇を取って、マリーのパソコン中毒を治癒させるためにマリーとの徒歩旅行に出た。旅行に出たのは今日の朝だよ。昨日でもなければ一昨日でもない。家を出たのは今日の午前五時三分だ。昨日の夕方に子ども達はママの所に預けて、二人だけの家で水入らずの時間を過ごし、話し合い愛し合い心を通じ合わせたのは昨日の夜から今日の朝にかけてだったのだ。二十四時間も経過していない。それなのに、ああ、それなのに。僕は情けないよ。マリーが簡単に僕を裏切るなんて」
ボブの頬からは涙が伝っていた。マリーはうなだれてボブの話を聞いていた。孝一郎はマリーの手を取り観察していた。
「この手はゴッドハンドだ。もう少しで一万ドルを手に入れていたかも知れない。すごい手だ」
ボブとマリーの話を聞いていない孝一郎は独り言を言った。孝一郎の独り言をきいてマリーの目がきらりと光り、「一万ドル。」と呟いた。
「コーさん。一万ドルと言ったわね。どういう意味なの」
「マリーさんがもう少しで一万ドルを手に入れたかも知れないという話だよ。A欄B欄は軽くクリアした。あの調子なら確実にC欄をクリアしていた。C欄をクリアすれば一万ドルが手に入っていたのだ。実に惜しかった。」
マリーは孝一郎の話でインターネットゲームの一万ドルを取り逃がしたことを思い出した。B欄をクリアした時はまだ一分十秒残っていた。一分以上の余裕が持てたのは初めての経験だ。孝一郎の言った通り一万ドルをゲットする可能性はかなり高かった。もし、ボブがマリーの手を掴まえて十秒余の中断をさせなかったら一万ドルが手に入っていたかも知れない。一秒で三から四つの数字を作るとして十秒なら三十種類以上の四桁数字を打てる。ボブが邪魔しなければ一万ドルゲットが現実となっていたかも知れないのだ。マリーの意識が覚醒した。マリーは一万ドル賞金乱数バトルゲームのことを思い出し、一万ドルの賞金を取り逃したことの無念さが心にふつふつと沸いてきた。賞金獲得を邪魔したボブが恨めしくなってきた。
「マリー。僕の話を聞いているのか」
「聞いているわ」
マリーは胡散臭そうに言った。
「それでは聞く。なぜ、リュックサックを放り投げて走り出したのだ。僕は必死にマリーを呼び止めた。走りながら何度もマリーの名を呼んだ。しかし、マリーは僕の声を無視して走り続けた。なぜ僕の声を無視して走り続けたのだ。なぜだ」
ボブに詰問されながらマリーはボブへの怒りがふつふつと湧いてきた。ボブの声に苛々がつのり、ボブに返事する代わりに、「ああ、くやしい。」と呻いた。ボブへの怒りと一万ドルの賞金を逃した無念がマリーの心を苛々させた。マリーは横を向いたり下を向いたりして溜息をついた。
「なぜなのだマリー」
「知らないわ」
マリーはぶっきらぼうに言った。マリーの言い訳を聞き、マリーの言い訳を許さずにマリーをとことん責める気でいたボブは肩透かしを食らった。
「それはないよ。マリーはここまで一目散に走ってきてパソコンでインターネットゲームをやったじゃないか。つまり、インターネットゲームをやるためにマリーは大事なリュックサックを放り投げ、夫の僕にそっぽを向いて五キロの道を走り続けたのだ。そうではないのかマリー」
「ボブがそのように思うのならそのように思えばいいわ。私は構わないわ」
ボブはインターネットゲームをやるために徒歩旅行を中断したマリーを責めた。マリーのパソコン中毒が子供達にも伝染して家庭が崩壊していることを主張してマリーを非難した。ボブはマリーが昨日のようにボブの主張に負けて、家庭崩壊したのはマリーの責任であることをマリーは認め、パソコン中毒を治すために再びボブと徒歩旅行をすると確信していた。しかし、マリーの心にはパソコン病に犯されたマリーが覚醒していた。
「うんざりだわ」
マリーは横を向いて呟いた。ふてくされているマリーにボブは憤った。
「なにがうんざりだ。マリー。真面目に考えろ。君はフランクリンとミシェルをパソコン中毒にしたのだ。引き篭もりの子供にしたのだ。マリーのパソコン病を治すための徒歩旅行をなぜ投げ出したのだ」
「ボブの話はうんざりだわ」
「なにがうんざりだ。冷静になって考えるんだ。マリー。そっぽを向かないで。僕の目を見るのだ」
マリーはボブを見た。マリーの目は鋭くなっていた。ボブはマリーの目の鋭さにたじろいだが、気を取り直してマリーを責めた。するとマリーはボブの話を無視するように横を向いた。ボブの怒りが爆発した。
「マリー。なぜそっぽを向くのだ。きみは母親として幸せな家庭を作る義務があるのだ。きみは母親としての義務を放棄して家庭を崩壊させた。マリーには母性本能がないのか。母親としての責任感はないのか。家庭を崩壊させたマリーを僕は許さない」
マリーは立ち上がって歩き始めた。
「マリー。どこに行くのだ」
「家に帰るわ」
ボブは呆れた。
「徒歩旅行はどうするのだ。放棄するのか。君は崩壊した家庭を元のアットホームな家庭に戻す積もりはないのか」
マリーはボブを睨んだ。そしてうす笑いをした。
「家庭崩壊していると思っているのはボブだけだわ。家庭崩壊なんかしていないわ」
マリーの反論はボブにはマリーがボブの正しい理論から逃げているようにしか思われなかった。
「父親が帰って来て大声で『ただいまあ。』と言っても誰も玄関に迎えに出てこない。家族のみんなが自分の部屋に引き篭もって父親の帰宅を無視だ。家族の対話がない。夕食はない。それぞれが食べたい時に食べるだけ。親子の対話はない。家族の意思疎通はなくなってそれぞれが自分勝手に行動している。それが家庭崩壊ではないというのか。それが家庭崩壊ではないということを説明して欲しいねマリー。説明ができるのなら」
「ボブは勘違いしているわ。」
マリーは毅然としていた。
「なにを勘違いしているのだ」
「ボブは家族のために働いている。家族の生活はボブの給料で成り立っている。だから家族の中心はボブだと思っているわ。そうでしょうボブ。」
「僕は僕が家族の中心とはちっとも思っていない。マリーは僕が亭主関白主義と思っているが、僕は亭主関白主義ではない。家族は平等だ。家族の生活費を稼いでいるのは僕であるが、それは僕の役目であって、マリーはマリーの役目がある。僕が生活費を稼いでいるからといって僕中心に家族はあるべきだなんて僕は考えていない」
「そうかしら」
「そうだ」
「でも、ボブは仕事から帰ったら家族が笑顔で迎えてくれるのが当然と思っている。夕食は家族みんなが集まって食事をしなければならないと考えている。夕食を食べながらフランクリンやミシェルが学校での出来事を父親のボブに報告するのは当然と思っている。グラマンの一日の様子を私がボブに報告するのを当然と思っている。そうでしょうボブ」
マリーはボブの本心を言い当てたとでもいうようにうす笑いをした。マリーの言う通りに考えているボブだったから、うなずいてしまいそうになったが、うなずいた後になにを言われるかが予想できなかったので、うなずくのが怖かった。
「違うのボブ」
「それが家族のあるべき姿だ。違うのかマリー」」」
2011年02月05日
ゴドーと歩きながら 12/20
「え、嘘なのですか」
「嘘に決まっていることを知らない純一郎は世間知らずもいいところ]
「どうして嘘をついたのですか」
「知らないの」
「知っているはずがないです」
「教えてあげましょうか」
「教えてください」
「それはね」
「それはなんですか」
「嘘をつく必要があったから」
「なぜ、嘘をつく必要があったのですか」
「知らないの」
「はい。知りません」
「あきれたわ。くやしくないの」
「なにがくやしいのですか」
「なぜ、嘘をつく必要があったのですかと母親のわたしに聞かなければならないことが」
「くやしいとかくやしくないとかの問題ではないと思います。私にはお母さんがなぜ嘘をつく必要があったのか分からない。分からないから聞いたまでです」
「そう」
「そうです」
「悲しいわ」
「なぜ、嘘をつく必要があったのですか」
「それは嘘をつく必要があったから」
「だから、なぜ、嘘をつく必要があったのですか」
「だからそれは、嘘をつく必要があったからよ」
「だから、なぜ、嘘をつく必要があったのですか」
花子は溜息をついた。
「嘘をつく必要があったのは嘘をつく必要があったからなのよ。それをなぜと聞かれれば嘘をつく必要があったからと答える以外にないわ。どうして純一郎は同じ答えしか選ぶことができない質問を何度もするのかしら。純一郎は不思議な子だねえ」
「お願いです。極寒のシベリアには行かないでください。お母さんがシベリアへ行ったら私はお母さんの身が心配で夜も眠れません」
「野ざらしを心に風のしむ身かな」
「え。」
「馬子は馬の口を捉えて旅を棲家とする。行き交う年もまた旅人なり」
「え、え」
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」
「え、なぜ芭蕉の俳句を詠ずるのですか」
「嘘をつく必要の理由をつくるためよ」
「芭蕉の俳句で嘘をつく必要の理由をつくることができるのですか。僕は納得できません。」
「どうして純一郎が納得する必要があるの。嘘をつく必要は私にあります。嘘をつく必要が私にあるということは嘘をつく理由も私にあるのです。でも純一郎には理由を理解できないから嘘をつく必要があったのは嘘をつく必要があったからという答えかたが一番適当なの。でも純一郎は不思議な子だから一番適当な答えを一番適当な答えと思っていないから一番適当ではない説明をやったの。純一郎が納得しないのは分かっているわ」
「もう説明はいいです。とにかくシベリアは行かないで下さい」
「行かないわ」
「本当ですか」
「本当よ」
「本当に本当ですか」
「嘘よ」
「ああ、堂々巡りだ。」
「純一郎ひとりで堂々巡りをしていなさい。私たちは出かけます」
「待ってください」
純一郎は花子を引きとめる理由を探した。夕食を一緒にやり、その間に花子たちがシベリアに行くことを断念するように説得するアイデアが純一郎の頭に浮かんだ。
「お母さん。久しぶりに会ったのですから私達と一緒に夕食をして下さい」
「あら、それはいいこと。みんなで食事をするのは素晴らしいわ。ねえ、孝一郎さん」
「私達が泊まっているホテルで夕食を取りたいのですが、お母さんはどこで食事をするのがいいですか。」
「そうねえ。純一郎たちが泊まっているホテルよりシャンゼリゼ通りのレストランで食事をするのがいいわ」
「シドニーのどこにシャンゼリゼ通りがあるのですか」
「シャンゼリゼ通りはシドニーにあるのですか」
「分からないからお母さんに聞いているのです。シドニーにないとすればボンにあるのですか。それともダーヴィンにあるのですか。シャンゼリゼ通りはオーストラリアのどの市にあるのですか」
「シャンゼリゼ通りはオーストラリアにあるのですか」
「シャンソンで有名なシャンゼリゼ通りはフランスにあります」
「オー、シャンゼリゼー。オー、シャンゼリゼー。のシャンゼリゼ通りですか」
「そうです。そのシャンゼリゼ通りはフランスにあるのです。そのシャンゼリゼ通りではないシャンゼリゼ通りはオーストラリアのどこにあるのですか」
「オーストラリアにもシャンゼリゼ通りはあるのですか」
「知らないからお母さんに聞いているのです」
「知らないから純一郎に聞いているのです」
「ここがどこかお母さんは知っているのですか。ここはオーストラリアですよ」
「ここがオーストラリアであるのはさっきまでは知らなかったけど今はどうにか知っているわ」
「お母さんの言うシャンゼリゼ通りはオーストラリアにあるシャンゼリゼ通りではなくてフランスにあるシャンゼリゼ通りなのですか」
「オーストラリアにシャンゼリゼ通りがあるのならオーストラリアのシャンゼリゼ通りでもいいですよ」
「オーストラリアにシャンゼリゼ通りがあるのですか」
花子は呆れて笑った。
「純一郎は人の話を聞くのが下手だねえ。私はオーストラリアにシャンゼリゼ通りがあるのならオーストラリアのシャンゼリゼ通りでもいいですと言ったのですよ。私がオーストラリアにシャンゼリゼ通りがあるかないかを知らないのははっきりしています。知らない私に『オーストラリアにシャンゼリゼ通りがあるのですか。』と聞くのはおかしいです」
「私の知っているシャンゼリゼ通りはフランスにあります。まさかフランスのシャンゼリゼ通りのことではありませんね。お母さん」
「シャンゼリゼ通りがフランスにあるのならフランスのシャンゼリゼ通りのことです。オーストラリアにシャンゼリゼ通りがあるのならオーストラリアのシャンゼリゼ通りのことです。アメリカにシャンゼリゼ通りがあるのならアメリカのシャンゼリゼ通りのことです」
「シャンゼリゼ通りはフランスにあります」
「そうですか。フランスにあるのですか」
「ここはオーストラリアです。フランスは遠いです」
「遠いのですか」
「お母さんはわたし達と食事をしたくないからフランスのシャンゼリゼ通りで食事をしたいと言っているのですか」
「そうかしら」
「そうに決まっています」
「そうに決まっていないかも知れなくてよ」
「きっとそうに決まっています」
「そうかしら」
「そうです」
「私は純一郎の家族と一緒にシャンゼリゼ通りで夕食をしたいと思っただけなの。それだけのこと。シャンゼリゼ通りがフランスにあるとかオーストラリアにあるとかというのは関係のないこと。純一郎が私達と夕食を食べたくないのなら、残念だけどここでお別れ。私たちは行きますわ。ごきげんよう、純一郎。私の息子」
「待ってください。私たちと夕食をしましょう。しかし、フランスのシャンゼリゼ通りで今日の夕食を取るのは不可能です」
「そうですか。それじゃ明日の夕食をシャンゼリゼ通りで取ることにしましょう。私は今日の夕食に拘っていません」
「そういう話ではありません。お母さんの話をしていると頭がおかしくなる。」
「ああ、久しぶりに純一郎と母子水入らずのお話ができて楽しかったですわ。ごきげんよう、純一郎」
「お母さん。待ってください」
純一郎は花子の前にたちはだかった。その時、遠くの方から人の声が聞こえた。どうやら女の声のようだ。声の聞こえる方向に走っている女の姿が見えた。
「コーさーん」
遠くの方から女性の声が聞こえた。みると走って近づいてくる女性の姿が見えた。姿はどんどん近づいてきた。走って来るのはマリーだった。マリーは、「コーさーん。」と叫びながら走っている。マリーの小さな姿がみるみるうちに大きくなってきた。髪を振り乱したマリーは土煙を上げながら走っている。マリーは猛烈な勢いでベンチまで走って来ると、孝一郎の側に座った。
「コーさん。パソコンを貸してください。もう我慢ができない。パソコンをやらないと気が狂いそう。一万ドルの懸賞金乱数バトルが今から始まるの。コーさん。パソコンを貸してください」
マリーは孝一郎からノートパソコンを奪うように取るとパソコンを開いてディスクトップにあるひとつのフォントをダブルクリックして開いてからURSを消して新たなURSを打ち込んだ。マリーのキーを打つ速さは神業のように早かった。
マリーのリュックサックを担ぎながらボブが走ってきた。
「マリー。なぜ逃げるんだ。マリー。何をしているのだ」
パソコン操作に集中しているマリーにはボブの声は聞こえない。マリーは一心不乱にパソコンに夢中になっていた。一万ドルの懸賞金乱数バトルというのはコンピューターが作った四桁の数字がA段階、B段階、C段階とあり、三分間にA段階、B段階、C段階の四桁の数字を最初にクリアした人間が一万ドルの懸賞金が貰えるという単純なゲームである。
マリーがSTARTキーをクリックするとA欄が青く点滅した。マリーは四桁の数字を作るとENTERキーを叩いた。正解の数字ではないのでブッブーと鳴った。マリーは一秒間に三通りの四桁の数字を打ち込むペースで次々とENTERキーを押した。マリーの指は目にも止まらぬ速さでキーを叩いた。A欄は次から次へと四桁の数字が変わっていった。ボブはマリーの前に立ち、マリーの一万ドルの懸賞金乱数バトルを止めさせようとした。
「マリー。止めろ。手を止めるんだ」
ボブの声は一万ドルの懸賞金乱数バトルに夢中になっているマリーの耳には聞こえない。マリーが0606の数字を打ってENTERキーを叩いた瞬間にジャジャジャジャーンとベーシーベンの運命の曲が鳴り、Aの欄には0606が点滅した。マリーが歓喜の声を発しながらENTERキーを押すとB欄が緑色の点滅を開始した。
ボブはマリーからパソコンを取り上げたかったが、パソコンは孝一郎の所有物である。強引に取り上げるとパソコンを壊してしまう恐れがあるのでマリーから強引にパソコンを取り上げることができなかった。
「マリー。止めろ。手を止めるんだ」
ボブは叫んだ。しかし、一万ドルの懸賞金乱数バトルのA欄をクリアしたマリーはますますキーを叩くことに集中し、ボブの声は聞こえなかった。マリーが0428を打ってENTERキーを押した瞬間にジャジャジャジャーンと再びベートーベンの運命の曲が流れてBの欄に0428が点滅した。マリーは「ウォー。」とまるで獣のような歓喜の声をあげながらENTERキーを押した。C欄が赤く点滅し始めた。運命の曲がマリーを高揚ざせるように流れ続けた。マリーは獣のうなり声のような声で運命を「ウーウー。」と口ずさみながらパソコンのキーを激しく叩いた。ボブは、「マリー、手を止めるんだ。」と言って、マリーの手首を掴んで強引にパソコンから指を離れさせた。マリーはボブを睨んで、
「手を離しやがれ豚野朗」
2011年02月04日
ゴドーと歩きながら 11/20
「老人がシベリアの荒野を歩き続けたら凍死します」
「凍死しても大丈夫ですよ、純一朗」
「大丈夫ではありません。凍死したらお終いです」
「お終いでも大丈夫なのです」
「シベリアの荒野で死んでしまったら大丈夫ではありません。もしかするとお母さんの死体さえ見つけることができないかも知れない」
「だからそれは大丈夫だと言っているのです。純一朗は私の話をちゃんとは聞いてくれないわ。純一郎は子供の時から聞き分けのない子供だった。変わらないねえ、純一郎は。あのね、純一朗。私たちは地球上のどんな場所で死んでもちゃんと葬式をするように葬儀屋と契約してあるのよ」
「え」
「ニライ葬儀社と契約してあるの。私がシベリアで死んでもアフリカで死んでもでもアメリカで死んでもでもフランスで死んでもでもブラジルで死んでもでも、どこで死んでもニライ葬儀社が私たちの葬式の手配をするようになっているの。例え北極や南極で死んでも葬式はちゃんとできるわ。私の体には発信機を埋め込んであるの。だから私がどこで死んでも行方不明にはならないわ。純一朗が心配することはないのです。わかりましたか」
「そんなことを問題にしているのではありません。お母さん。私の話をちゃんと聞いてください」
「いやです。純一朗の話はちっともおもしろくありません。ちゃんと聞くと私の頭がおかしくなってしまいます」
嫁の洋子が純一朗と花子の間に割って入った。
「あら、まあ。お母さまは立派ですわ。お母さまが南極で死ぬと南極で葬式をするのですか、それとも日本で葬式をするのですか」
「死んだ私を日本に運ぶのは難儀なことです。葬式は南極で済ますわ」
「それでは私達は南極まで行かなければなりませんね」
嫁の洋子は南極に行けることがとても嬉しいようだ。
「南極に来てもいいし来なくてもいいし。どちらでもかまいません」
「お骨を持ち帰らなければなりませんから、私たちは南極に行った方がいいですわ」
「私たちの死体は火葬して、骨灰は海に撒くように葬儀屋と契約しています。ですから、純一郎にも洋子さんにも手間をかけさせるようなことはありません」
「そうなのですか。」
嫁の洋子はがっかりしたがすぐに気を取り直して、
「でも、お母さま。葬式には遺族を呼ぶべきですよ」
「そうですか」
「そうです。絶対に呼ぶべきです」
洋子は必死に訴えた。
「死んだ時に遺族に連絡することを葬儀社と契約してあるのですか」
「さあ、どうかしら」
「死んだ時に遺族には連絡することを葬儀社と契約してください。お願いしますお母さま」
「洋子さんが望むならそのように契約します」
「ああ、よかった。お母さんが外国で死ぬ時は葬式を現地でやってくださいね」
「その積もりです。」
「旅費はお母さまたちがお持ちになりますか」
「死んだらお金は必要がないからそうします」
「ぜひそうして下さい」
「そうするのですか。孝一郎さん」
「親族に連絡すること。旅費は私たちが持つことはすでに葬儀社と契約してあるよ」
「本当ですか。親族には私の名前も入っていますか。」
「純一郎と結婚した時に入れたと思います」
「思いますですか。お父さん。ちゃんと入っていると断言をできないのですか。」
「断言はできない。」
「そうですか」
洋子はがっかりした。孝一郎はパソコンで洋子が連絡する親族の名前に連ねてあるか調べた。
「洋子さんの名前は入っています」
「本当ですか」
「ああ、確かに入っています」
「よかったあ。お父さんお母さん。あなた達が外国で死んだ時には私は必ず葬式に参列します」
洋子は花子が死ぬと海外旅行ができるのでとても喜んだ。
「洋子。お前はなんと浅はかな話をするのだ。どきなさい。お母さん。私が心配しているのは死んだ時のことではありません。死ぬ前のことを心配しているのです」
「死ぬ前のことですか」
「そうです。お父さんとお母さんの命を心配しているのです。老人であるお父さんとお母さんがシベリアに行ったら命を失うかもしれないことを心配しているのです」
「私たちが命を失うかもしれないと心配しているのですか」
「そうです」
「変な子だねえ純一郎は。心配する必要がないことを心配するなんて」
「親の無事を心配しない子供はいません」
「私達はずっと無事なのです。ずっと無事なのに心配するから純一郎は変な子だと言っているのです」
「年寄りがシベリアに行くのは無事ではありません。危険です」
「あのねえ、純一郎。私の息子。私達はゴドーと歩いているのです。だから不安に生きることとは無縁なのです。幸せと歩いているのです。だから、地球上のどこに行っても私は無事なのです」
「ゴドーはどこに居るのですか」
純一郎は回りを見回してゴドーを探した。
「さあ。知りません」
「どこにも居ないのですか」
「さあ。居ないと言えば居ません。居ると言えば居ます」
純一郎は花子の話に呆れた。
「お母さんの言っていることがさっぱり分かりません。ゴドーって誰ですか」
「ゴドーを知らないの」
「知りません」
「知らないのですか。知らないのなら知らないでいいですわ」
洋子が自信なさそうに言った。
「お母さん。もしかするとゴドーというのはベケットのゴドーですか」
「そうです。」
「ベケットの『ゴドーを待ちながら』のゴドーですか」
「そうです」
「お母さんはゴドーと歩いているのですか」
「そうです」
「うわあー。なんて素晴らしいことでしょう」
洋子は拍手をした。
「洋子。ゴドーというのは何者なのだ」
「知りません」
「え。知らないのにどうして拍手するのだ」
純一郎は洋子を責めた。
「ゴドーが誰なのかを知らないのは『ゴドーを待ちながら』を読めば分かります。『ゴドーを待ちながら』を読んでください」
「お母さんがゴドーと歩いていることに拍手したということはゴドーが何者であるかを知っているからだろう」
「ゴドーが何者であるかは私は知りません。お母さんに拍手をしたのはお母さんがゴドーと歩いているからです」
「お前の話は支離滅裂だ」
「支離滅裂に感じるのはあなたが『ゴドーを待ちながら』を読んでいないからです」
洋子とゴドーについて話していると自分の頭が支離滅裂になりそうなので純一郎は話すのを止めた。ゴドーが何者であるかは関係なく、とにかく年老いた両親をシベリアに行かさないことが純一郎にとっては重要である。
「お母さん。お願いです。とにかくシベリアに行くことは止めてください。お母さんがシベリアへ行ったら私は心配で夜も眠れなくなります」
「眠れなくなるのですか」
「当然です」
「洋子さん。眠れなくなるのです。」
「私はぐっすり眠れます」
「純一郎は眠れなくなるのですか」
「さあ、どうかしら。私は夜はぐっすりと眠るので純一郎さんが眠れなかった夜というのを見たことがありません。本当かどうか確かめるのは楽しみですわ。でも私は眠ってしまうので確かめることはできません」
純一郎は顔を真っ赤にして洋子を怒った。
「よくもお前は平気で夫に恥をかかせるようなことが言えるものだ」
「え、私が純一郎さんに恥をかかせるようなことを言ったのですか」
「そうだ。まるで、私が夜眠れないということが嘘であるとお前は言っているようなものだ」
「そうですか」
「お前とは離婚だ。今の話を撤回しろ。私に恥をかかせたことを謝れ」
「ごめんなさい純一郎さん。お母さん。話を撤回しますわ」
洋子はあっさりと話を撤回した。
「お母さん。シベリアに行かないで日本に帰って下さい。日本の田舎で静かな余生を過ごして下さい」
花子はすんなりと、
「分かりました」
と言った。花子がすんなりと純一郎の要求に応じたことを純一郎は信じられないので、
「本当に分かったのですか」
と念を押した。
「本当に分かりました」
と花子はすんなりと答えた。純一郎はさらに念を押した。
「それでは日本に帰るのですね」
「はい。日本に帰ります」
「日本の田舎で静かに余生を過ごすのですね」
「はい。日本の田舎で静かに余生を過ごします」
「本当に日本に帰りますよね」
「はい」
「シベリアに行った後に日本に帰るなんて言いませんよね」
「はい。言いません」
「本当ですか」
「本当です」
「本当に本当ですか」
「嘘です」
花子はすんなりと否定した。純一郎は唖然とした。
2011年02月03日
ゴドーと歩きながら 10/20
「ああ、どうして想像力の貧弱な子になってしまったのでしょう、純一郎は。」
「そんな夢遊病みたいなことは言わないで下さい。それよりも私と一緒にシドニーのホテルに帰りましょう。砂漠の廃墟の広場に老人二人だけでいるのは危険です。」
息を弾ませている女の声が背後から聞えた。
「お母さん。お久しぶりです」
純一郎に追いついてきた嫁の洋子は一歳の子をおぶっていた。
「あーら」
と言ったが、花子の口からは後の言葉が出てこない。
「洋子です」
「ああ、洋子さんとおっしゃるのですか」
「純一郎さんの二番目の嫁の洋子です。お会いするのは一年ぶりです」
「ああ、純一郎の二番目の嫁の洋子さんですか。お会いするのは一年ぶりなのですか」
花子は洋子に見覚えがなかった。純一郎の二番目の嫁だという洋子のことを思い出そうと花子は洋子の顔を見詰めた。
「私のことを忘れてしまったのですか」
洋子はさびしそうな表情をした。花子は苦笑いした。
「そうです。忘れてしまったようです。なにしろ私はアルツハイマーという物忘れ病に犯されていますから。でも洋子さんが純一郎の二番目の嫁だということは理解できますから、問題はないと思います」
「そうですわね。純一郎さんの二番目の嫁であるということを理解していただければ私はそれでいいのです。お母さん、久しぶりです。私は純一郎の二番目の嫁の洋子です」
「始めまして。私は純一郎の母の花子です。洋子さんとは初対面なのかしら」
「いいえ。十回ほどお母さんとはお会いしています」
「そうですか。それでは洋子さんにとって初対面ではないですね。私は今の所洋子さんとは初対面ですが、洋子さんと会ったことを思い出すかも知れません。思い出したら初対面ではなくなりますが、今は思い出していませんから初対面になります。」
「挨拶はもういいだろう」
純一郎は花子と洋子の会話を止めた。
「お母さん。もう直ぐ夜になります。いつまでもここに居たら危険です。私たちのホテルに一緒に帰りましょう」
「純一郎のホテルにですか」
「そうです」
「純一郎のホテルはどこにありますか」
「シドニーです」
「シドニーですか」
「そうです」
「純一郎のホテルには行けないかも知れません。どうですか孝一郎さん」
「ああ」
「今夜泊まるホテルは決まっているのですか」
「決まっているのですか孝一郎さん」
「決まっていると言えば決まっているし決まっていないといえば決まっていない」
「どういうことです。」
「野生の駝鳥が公園に現れれば決まっている。駝鳥が現れなければ決まっているとは言い難い」
「お父さんの言っている意味が分かりません」
「分からないなら分からなくていい」
「そういうわけにはいきません。お父さんとお母さんの二人をこの公園に残して去るわけにはいきません」
「どうする花子。今日駝鳥が現れなかったら明日もここに来たいか」
「どうなのかしら。明日はドイツに行って明後日にこの公園に戻って来たいわ」
「そういうわけにはいかないよ」
「どうしてですか」
「品定めする予定になっているドイツの別荘は空港から半日も掛かる場所にあるのだ。明後日までにここに帰ってくるのは無理です。それにドイツの次はモスクワに行くことになっている」
「ドイツの次はモスクワに行くことになっているのですか」
「決まっていると言えば決まっているし決まっていないと言えば決まっていない。モスクワの赤の広場を散歩したいという気持ちが変わればロシアに行かないかも知れない」
「誰の気持ちが変わればですか」
「私の気持ちが変わればです」
「孝一郎さんの気持ちは変わりそうですか」
「さあ、分かりません。それより花子さんの気持ちは変わりましたか」
「私の気持ちですか」
「花子さんの気持ちです」
「私の気持ちですか」
「そう、花子さんの気持ちです」
「私のどんな気持ちですか」
「野生の駝鳥です」
「野生の駝鳥ですか」
「公園です」
「公園ですか」
「野生の駝鳥が公園を散歩するのです」
「え、野生の駝鳥が公園を散歩するのですか。ぜひ見たいですね」
「今日は見れそうもありません」
「今日は見れそうもありませんか」
「やがて、日が暮れますから」
「やがて、日が暮れそうですね」
「日が暮れたら夜になり、ここは闇に包まれます」
「闇ですか。闇の中では駝鳥は見えそうもありませんね」
「明日もこの公園に来たいですか」
「どうして明日もこの公園に来るのですか」
「野生の駝鳥です」
「野生の駝鳥ですか」
「公園を野生の駝鳥が散歩するのを見たいと言い出したのは花子さんです」
「そうですか。私ですか」
「だからドイツに行く前にオーストラリアのこの公園に来たのです」
「そうですか」
「もう少しで夕日は西の地平線に隠れます。闇が迫ってきます。今日は公園を散歩する駝鳥を見ることはできそうもありません」
「そうですね」
「花子さんは明日もこの公園に来たいですか」
「私がこの公園に明日も来たいかどうかをなぜ孝一郎さんは私に聞くのですか」
「答えるのが難しい質問です」
「明日はドイツに行くのでしょう」
「そうです」
「ドイツへ行くのならこの公園に来ることはできません」
「そうですね。でも、花子さんがどうしてもこの公園を散歩する駝鳥を見たいというのならドイツへ行くのをキャンセルしてもいいですよ」
「どうしても見たいですわ。明日、この公園に来れば野生の駝鳥が散歩している姿を見れるでしょうか」
「〇、1パーセントの可能性はあります」
「たった〇、1パーセントの可能性ですか」
「今日もたった〇、1パーセントの可能性があるけど花子さんはこの公園に来ました」
「そうですか。」
「明日も〇、1パーセントの可能性ですよ」
「明日も〇、1パーセントの可能性ですか。明日が〇、1パーセントの可能性ならこの公園に来たくありません」
「花子さんは公園を散歩する駝鳥を見たくないですか」
「見たいですわ」
「本当に見たいですか」
「さあ。考えているうちに頭がこんがらがって本当に見たいのかどうか分からなくなりました」
「そうですか」
「本当に見たいのかどうか分からなくなってきました」
「そうですか」
「シベリア」
「え、シベリアですか」
「そうです。シベリアです。急にシベリアのジャガイモが食べたくなりました」
「北海道のじゃがいもではなくてシベリアのジャガイモが食べたくなったのですか」
「はい、シベリアのジャガイモは食べたいけど北海道のじゃがいもが食べたいとは思いません。なぜかしら」
「オーストラリアに居る性です」
「そうですね。オーストラリアに居る性ですね。ところでシベリアのジャガイモはおいしいかしら」
「おいしいと思います」
「北海道のじゃがいもとシベリアのジャガイモとどちらがおいしいのでしょう」
「シベリアで食べるならシベリアのジャガイモが一番おいしいです。北海道で食べるなら北海道のじゃがいもが一番おいしいです」
「シベリアのじゃがいも、わくわくしてきましたわ」
「私は赤の広場でケンタッキーフライドチキンを食べたくなりました」
「私は赤の広場でケンタッキーフライドチキンなど食べたくありません」
「それではポテトフライを食べたら」
「ポテトフライは食べたくありません」
「それではコカコーラを飲んだら」
「コカコーラを飲みたくありません」
「それではウォッカを飲んだら」
「ウォッカを飲みたいですわ」
「よし、決まりです」
「なにが決まりですか」
「このベンチから立ち上がることです」
孝一郎と花子がベンチから立ち上がろうとするのをあわてて純一郎が止めた。
「お父さん、お母さん。どこへ行く積もりですか。シベリアに行くつもりですか。シベリアに行くのは止して下さい。死んでしまいます」
「それは心配する必要がありませんわ。そうですよね、孝一郎さん」
「花子の言う通り私たちのことを心配する必要はない」
「お父さんあなたは八十三歳です。お母さんは七十八歳です。よぼよぼの老人がシベリアまで行くのは肉体の負担が大きいです。心配するのは当然です」
「心配するのが当然なのですか」
「当然です」
「当然なのですか」
花子の質問に純一郎は呆れた。
「お母さん。極寒のシベリアに行くのですよ。お母さんは七十八歳です。老人です。厳しいシベリアの大地を旅行したら過労や寒さで死んでしまうかも知れないのです」
「シベリアの老人はみんな死んでしまうのですか。シベリアには老人はひとりも居ないのですか」
「お母さん。そんな問題ではないのです。老人であるお母さんが極寒のシベリアを旅行するのは体力に無理があると言っているのです」
「シベリアに老人は居ないのですか」
「老人は居ます」
「シベリアに老人が居るということは老人の私がシベリアを旅行することができるということです。純一郎はシベリアに老人が生きているのに老人の私がシベリアを旅行してはいけないという。純一郎の言っていることが私には理解できません。純一朗の話はややこしくて難解です」
「難解ではありません。至極当然なことを話しているのです。お母さんが極寒のシベリアで死ぬかも知れないと言っているのです」
「私が死ぬのですか」
「死ぬとは言っていません。死ぬかも知れないと言っているのです。死ぬ危険があるシベリア旅行は止めて下さい」
「純一朗は私が死ぬことを心配しているのですか」
「私は息子なのです。心配するのは当然です」
花子は笑った。
「親の死を心配しない息子はいないです」
「純一朗。私の死を心配する必要はありません。あなたは心配症だねえ」
純一朗は呆れた。
「お母さんは気まぐれにどこにでも行きます。極寒のシベリアの荒野で迷子になるのかもしれません」
「白夜のシベリアで迷子になるのですか」
「そうです」
「白夜のシベリアをいつまでも歩き続ける。なんて素晴らしい光景でしょう」
花子はシベリヤの荒野を歩き続けている自分の姿を想像してうっとりとした。
2011年02月02日
ゴドーと歩きながら 10/20
花子は孝一郎に助けを求めたのに孝一郎は花子になにも言わずににやにやしている。男の子は久しぶりに花子に会えたことが嬉しいらしく花子の手を握って、
「おばあちゃん、元気だった」
と言った。花子は男の子の正体を知らないので気味が悪かったが、知らない振りをするわけにはいかないので、
「おばあちゃんは元気でしたよ」
と言って、男の子が握った花子手を振るものだから花子も久しぶりの再会を喜ぶ振りをして手を振った
「おばあちゃん」
新たに八歳くらいの女の子が息を弾ませながら走ってくると花子の前に立った。
「あら、まあ。ええと」
目の前に親しげに微笑んでいる女の子の顔も花子は見覚えがなかった。男の子も女の子も花子に「おばあちゃん。」と言ったのだから二人は花子の孫ということになるのかも知れないと花子は推理した。血の繋がりは無いが花子が老人だから、「おばあちゃん。」と言っているかもしれないが、男の子も女の子もとても親しそうに、花子に、「おばあちゃん。」と言ったのだから二人はやっぱり花子の孫ということになるのかも知れない。しかし、ここは花子の住む日本から遥かに離れたオーストラリアである。日本から遥かに離れているオーストラリアに花子の孫がいるという記憶は花子にはなかった。花子は突然現れたオーストラリアの孫に戸惑い、自分をおばあちゃんと呼んだ子供の正体を懸命に思い出そうとした。
「お父さん」
背後で怒った声がした。背後の声に花子が振り返ると下腹が膨れ上がった中年の眼鏡男が立っていた。なんとまあその中年男は長男の純一郎だった。
「あらまあ。純一郎。あなたがここに居るなんてびっくりだわ。いつからオーストラリアに住むようになったの」
日本にいる筈の息子の純一郎がオーストラリアのシドニーの西五十キロにある名もないさびれた公園にいることに花子は驚いた。
「驚いているのは私の方です。どうしてお父さんとお母さんがこんな所にいるのですか」
「純一郎こそ、なぜここに居るのですか」
「私達は七泊八日の旅行でオーストラリアに来たのです。純太がバスの中からお父さんとお母さんを見たのでバスを下りてここに来たのです」
純一郎が言うと純太は首に掛けていた双眼鏡を見せ、
「この双眼鏡でおばあちゃんたちを発見したんだ」
と言いながら得意そうに双眼鏡で花子や孝一郎を覗いた。花子は純一郎を見たので純一郎の子供である純太ちゃんと真由ちゃんのことを次第に思い出した。
純一郎は年老いた孝一郎と花子がオーストラリアの名もない原っぱに居ることに驚き、そして怒っていた。
「東京の家に行くと九州に引越したというし、九州に行くと北海道に引っ越していたし、北海道の家に行くと大阪に引っ越した後だった。そして大阪の家に尋ねて行くと大阪の家も売ってしまっていて、引越し先が不明になり、お母さんたちの住んでいる所が分からなくなった。大阪の次ぎはどこに引っ越したのですか。お母さんたちの居場所が分からなくてとても心配したのですよ」
「心配したのですか」
花子は純一郎に訊いた。
「心配するのは当然です」
「当然なのですか」
「当然です。大阪の次はどこに引っ越したのですか」
「さあ」
「さあ、ではないです。お父さん、大阪の次はどこに引っ越したのですか」
「大阪の次か」
孝一郎はノートパソコンを開いた。
「ええと、大阪の家を売った後は温泉宿に泊まっている。思い出した。大阪の家を売った後はいい物件が見付からなかったものだから温泉宿に泊まったんだ。飛騨の奥にある秘境の温泉でね。とてもいい温泉だった。お前も呼べばよかった」
純一郎は東京の都立高校の教師をしている。純一郎は長男で親孝行な息子だった。心配性の純一郎は年を取った両親が二人だけで生活していることが心配で、休日の時は子供を連れて孝一郎と花子に会いに行くのを心掛けていたのたが、孝一郎と花子は純一郎に連絡もしないで住む家が変わるものだから引っ越した二人を見つけるのに苦労をした。この一年の間、純一郎は孝一郎と花子の引越し先を探すことができなくて二人に会えなかった。会えないと悪いことを予想してしまう。二人が死んでしまったのではないかと純一郎は心配していた。
「温泉に行ったのなら、温泉に行ったと電話をしてください。お父さん達の行方が分からなくなってとても心配したのです」
「そうか、心配したのか」
「当然です」
「私達のことは心配しなくていいわ、純一郎」
花子はひょうひょうとさりげなく言った。
「なにを言っているのですかお母さん。心配するのは息子の義務です」
「そうですか」
「そうです。行方不明になって一年後に、オーストラリアの砂漠で会うなんて信じられないことです。お父さんは八十三歳なのです。お母さんは七十八歳なのです。老人二人だけでオーストラリアの砂漠に来るなんて無謀です。お母さんも老人なのですから老人なら老人らしく日本でおとなしく生活してください。大阪の次の家はどこですか。まさかオーストラリアではないでしょうね」
「ああ、オーストラリアには住んでいない。オーストラリアには花子が希望して立ち寄っただけだ。花子がオーストラリアの公園を散歩している野生の駝鳥を見たいというものだからここに来たのだ」
「駝鳥を」
純一郎は絶句した。
「駝鳥を見たいのなら動物園に行けばいいです」
純一郎は怒って言った。
「動物園に飼われた駝鳥ではないのだ。公園を散歩している野生の駝鳥でなくては駄目なのだ」
「それなら自然公園に行けば見れます」
「自然公園の駝鳥は野生の駝鳥ではありません。公園で公園の外からやってきた野生の駝鳥を見るのです。自然公園の中の駝鳥を見てもわくわくしませんわ」
と花子は言った。純一郎は呆れた。
「お母さん。とんちんかんなことを言わないでください。自然公園の駝鳥はまぎれもなく野生の駝鳥です。公園を散歩している野生の駝鳥にはわくわくして自然公園の野生の駝鳥にはわくわくしないというお母さんの基準は変です。」
「基準が変ですか」
「基準が変です」
「R県のT町」
と花子が言った。
「え、R県のT町がどうしたのですか」
純一郎は意味不明の花子の言葉を聞き返した。
「純一郎はR県のT町を知っていますか」
「知りません」
「S県のM町」
「S県のM町がどうしたのですか」
「純一郎はS県のM町を知っていますか」
「知りません」
「R県のT町では野生の猪が町の中を闊歩するのです。わくわくしませんか」
「どうして猪が町の中を歩き回るのにわくわくするのですか」
「純一郎はわくわくしないのですか」
「わくわくする筈がないです」
「そうなの、純一朗はわくわくしないのですか。不思議な子だねえ。いいですかS県のM町では野生のお猿さんが町の中を散歩するのです。町の人々と喧嘩しながら散歩するのです。わくわくするわよね」
「わくわくしませんよ」
純一郎は呆れた。
「どうして、猿が町を散歩するのにわくわくするのですか。町の人達は猿に迷惑しているのです」
「純一郎はわくわくしないのですか。不思議な子だねえ」
「山に餌がなくなってしまったために猪や猿は餌を求めて人間が住む町にやってきたのです。人間の自然破壊が猪や猿や熊の生活圏を小さくしたために起こったことなのです。これは虐待された野生動物の自然破壊文明への反逆です。珍しいことでもわくわくすることでもありません」
花子は純一郎を不思議そうに見つめた。
「悲しい子だねえ、純一郎は。猪さんがね。『お婆ちゃん。この荷物重いでしょう。僕の背中に乗せなさい。僕がお婆ちゃんの荷物を運んで上げます』と言うのです。」
「え、猪がお婆ちゃんの荷物を運ぶのですか」
「お猿さんがね。『おじいちゃん。蜜柑を取るのは大変でしょう。僕も取ってあげます。』と言うのです」
「え、なんの話をしているのですか」
「猪さんがね。『奥さん忙しいでしょう。私が買い物をしてきます。私の背中にカゴを縛り付けて注文書を入れて下さい』と言うのです。お猿さんがね。『旦那さん。車の運転は大変でしょう。私が運転をしてあげます』と言うのです。」
「お母さん。自分勝手な想像を止めて下さい」
「猪さんは町の買い物代理屋になってね、お猿さんは運転代行屋をしたり畑作業を手伝ったり清掃屋になったりするのです。わくわくします」
「お母さん。お伽噺と現実を混同しないでください。現実は現実。お伽噺はお伽噺です。お母さんはお伽噺をしているだけです。そもそも野生の猿は人間と喧嘩をするとお母さんは言ったではありませんか。それなのに野生の動物が人間の手助けをするというお母さんの話は矛盾しています」
花子は溜息をついた
2011年02月01日
ゴドーと歩きながら 9/20
「ボブさんがサングラスをくれたわ。サングラスを掛けるのは生まれて初めてだわ。なんだか不良になった感じ。うふふ。」
孝一郎はノートパソコンのモニターを見ながらキーを叩いていた。パソコンに集中している孝一郎には花子の声が聞えない様子である。いつものことである。花子は一人言とも孝一郎に話しているとも受け取れるような話をした。それもいつものことである。
「私はなぜオーストラリアに居るのかしら。家を出てタクシーに乗った時、タクシーの後部座席でうとうと居眠りをして、飛行機の座席ではすっかり寝入って、飛行機を下りてそれからタクシーの後部座席に座わりながらうとうとして、うとうととしている内にこの公園に着いた。なぜこの公園に来たのかしら。こんなに荒れていてなにもない。ここは公園なのかしら」
花子はなぜこの公園に居るのかその理由が知りたくなった。
「孝一郎さん。なぜこの公園に私と孝一郎さんは居るのですか」
花子は孝一郎の耳に口を近づけて質問したが、孝一郎がパソコンから目を離すことはなかった。花子はなぜここに居るかを知りたかったから孝一郎の耳にもっと口を近づけて孝一郎を呼んだ。
「孝一郎さん」
花子が三度呼び掛けようとした時、孝一郎孝一郎はパソコンから目を離して花子を見た。
「花子さん。なんですか」
穏やかな孝一郎の顔をオーストラリアの赤い土の反射光が赤く照らした。
「私と孝一郎さんはなぜここに居るのかしら」
孝一郎は辺りを見回した。見回す限りの地平線が孝一郎の目に入ってきた。
「この公園に居る理由を知りたいのですか」
「はい」
なぜこの公園に居るのか。孝一郎は回りを見回して、ここに居る理由を思い出そうとしたが、しかし直ぐには思い出せなかった。
「ここはオーストラリアだったね」
「ここはオーストラリアです。シドニーから西に五十キロくらい離れている所です」
孝一郎はパソコンで孝一郎日記の画面を見た。
「まだ株の売買は終わらないのですか」
「いや。終わった」
「株の売買は終わったのですか」
「ああ、終わった。今日は運良く三十万円儲けたよ」
「それはよかったです」
孝一郎日記には、
×月×日
花子がオーストラリアの野生の駝鳥が見たいと言いだす。ドイツに行く前に野生の駝鳥を見るためにオーストラリアのどこかを散歩することにする。
と書かれていた。
「日記には花さんがオーストラリアの野生の駝鳥が見たいと言いだす。ドイツに行く前にオーストラリアの公園を散歩することにすると書いてあります。花さんがオーストラリアの野生の駝鳥を見たいと言ったからここに来たようです」
「まあ、私がオーストラリア野生の駝鳥を見たいと言ったのですか」
「はい、そのようです」
「そうですか。私が言ったのですか」
「はい、花さんが言ったようです」
「だからここに居るのですね」
「だからここに居るのです」
「なぜドイツに行くのですか」
孝一郎はドイツに行く理由を書いてある日記をさがした。
孝一郎日記には、
×月×日
破産した家族五人が自殺した別荘が格安で売りに出た。一家心中については国内新聞に掲載されなかったから自殺のことについては別荘のある村人しか知らない。別荘は五百年前の貴族の城でありかなりの価値がある。リフォームして村人の口を封じれば、事情を知らないロシアの成金に高額で売れる見込み有り。一見の価値有り。
幸太郎は日記を読んで花子に聞かせた。
「まあ、今度はドイツのお城に住むのですか。胸がわくわくしますわ」
「まだ別荘を買うとは決まっていない。ドイツでゴンタローと会うことになっている。ゴンタローがOKを出したら買うことになる」
「ゴンタローさんはリフォームの天才ですわ。ゴンタローさんの腕にかかれば百万円の家が一千万円になるし千万円の家が一億円になります」
「ゴンタローはリフォームの天才というか詐欺師というか。付加価値をつける天才というか」
「ヨーロッパのお城に住むのは初めてですわ。楽しみですわ」
「リフォームを始めてから売れるまでの間だけだよ。」
「何日くらい住めるかしら」
「リフォームに一ヶ月は掛かるはずだから、一ヶ月は住める」
「孝太郎さん。ドイツに行きましょう」
「ドイツに行く予定だったのにドイツに行く前にオーストラリアに寄ったのは花さんが野生の駝鳥を見たいと希望したからと日記に書いてあるよ。花さんはオーストラリアの公園を歩く野生の駝鳥は見なくていいのですか」
花子は黙った。瞼を閉じ、瞑想をした。町の道路を歩く野生の猪が浮かんだ。テレビで見た風景だ。屋根から屋根へ走り回る野生の猿。テレビで見た風景だ。なぜかしら駝鳥が浮かんだ。街の中を走り回る野生の駝鳥。花子は野生の駝鳥が街を走り回る風景を見たいと思った。
花子はホテルから成田空港に向かう途中で、街の中を走り回る野生の駝鳥の姿が目に浮かび。「野生の駝鳥を見たいわ。」と無意識に口に出した。それを聞いた孝太郎はドイツ行きをキャンセルしてオーストラリア行きの旅客機に乗った。花子は「野生の駝鳥を見たいわ。」と言った記憶はなかった。だからオーストラリアに来た理由も公園のベンチに座っている理由も知らなかった。オーストラリアについてからあれやこれやと花子と孝太郎は話をして、どこかに花子と孝太郎に話のずれが生じて、野生の駝鳥を見る話が公園を歩く駝鳥を見る話になったようだ。あれやこれやの話から生じたことなので花子は公園を歩く駝鳥を見る話を忘れていた。花子は、「花さんはオーストラリアの公園を歩く野生の駝鳥は見なくていいのですか。」と孝太郎に言われたので自分がオーストラリアの公園を歩く野生の駝鳥は見たいのかどうかを考えるとやっぱり見たいと思った。猪や猿は人間を襲うようだから街の中を歩き回る猪や猿を見たかったが襲われるかも知れないので花子には街の中を歩き回る猪や猿を見に行く勇気はなかった。でも駝鳥は人間を襲わないだろうから猪や猿を見る代わりに駝鳥を見たいと思った。街を歩く野生の駝鳥なのか公園を歩く野生の駝鳥なのかは花子には区別することはできなかったから、いつの間にか公園を歩く野生の駝鳥を見ることになったことになんの疑問もなかった。
「公園を歩く野生の駝鳥を見たいですわ。ここに居れば見ることができますか」
「さあ。分かりません。野生の駝鳥を見たいのなら自然動物公園に行けば見れます」
「自然公園の中の野生の駝鳥は野性の駝鳥ではありません。見たいとは思いません。私は街の中を歩く野生の猪や猿のような野生の駝鳥を見たいのです」
「それは難しいです。野生の駝鳥を見ることができる街がどこにあるか私は知りません」
「この公園なら野生の駝鳥が歩くでしょうか」
ベンチがひとつある広場だったから花子はこの場所が日本のいたる所にある小さな公園のような公園であると勝手に決めていた。孝太郎は花子が決めたことにやさしく賛同してこの場所を公園であることにした。
「分かりません。ここは野生の駝鳥が来ない公園かも知れません。来る公園かも知れません。もし、野生の駝鳥が現れなかったら、明日は別の公園に移動しますか。移動を一年間続ければ野生の駝鳥が公園を散歩しているのを見れるかも知れません。日を重ねれば情報も増えますからね。一年間オーストラリアに住めば見ることができるかも知れません。
しかし、ずっとオーストラリアに住むということはドイツの別荘に行けないことになります。私はドイツの別荘にこだわってはいません。ドイツに行かなくてもよろしいです。花さんが公園を歩く野性の駝鳥を見るまでオーストラリアに居たいのならそれでもかまいません。私はそれでもいいです。花さんはどうですか」
「野生の駝鳥が公園を歩いている姿は見たいし、ドイツの別荘にも住みたいです。私は悩みます。どちらがいいのでしょうか。私は決めることができそうもありません」
「そうですか。それでは花さんがドイツの別荘に行きたくなった時に行くことにしよう」
「ドイツの不動産屋に会う予定はないのですか」
「明日、会う予定になっています。」
「まあ、大変。駝鳥を見るどころの話ではないですわ。約束を破ったら不動産屋さんを怒らしてしまいますわ。」
「私達はボケ老人だから道を迷ってしまったと言えばいいのです。ボケ老人にはありがちなことだからそのようないいわけで彼は納得すると思います。それにドイツの別荘を無理して買う積もりはないから、ドイツに行かない理由があればドイツに行かなくてもいいです」
「そんなことをしたら不動産屋さんが怒ります」
「ぼけ老人なので忘れてしまったと言えばいいのです。それで問題は解決します」
「そうなんですか」
「そうなんです」
「孝一郎さんは嘘をつくのが上手です」
「あははは。私は老人だから老人であることをあれこれとうまく利用しているだけです。それで人生を楽しめるのです」
「そうなのですか」
「そうなのです」
花子はほっとした。駝鳥を見るまでオーストラリアで過ごすかそれともドイツの別荘に行くかはすぐに決めなくてもいいのだ。花子は立ち上がって野生の駝鳥を探した。
突然、花子の前に十歳くらいの男の子が現れた。
「おばあちゃん。」
男の子は走ってきたらしく激しい息づかいをしている。予想もしなかった子供の出現に花子は驚いた。
「おや、まあ。見たことがあるような子供ですけど。孝一郎さん。この子は誰でしたっけ。」
花子は目の前の男の子を見た覚えはなかった。男の子がおばあちゃんと言ったのでおばあちゃんと言った子どもに「見たことがない。」というと失礼になると思ってつい、「見たことがあるような子供ですけど。」と言ってしまったのだ。見たこともない子どもに「おばあちゃん。」と言われて花子は困り、孝一郎に助けを求めた。
「孝一郎さん。この子は誰なのかしら。」
2011年01月31日
ゴドーと歩きながら 8/20
「ごめんなさいボブ。全ては私が悪いわ。ごめんなさい」
マリーは涙を流して謝った。
「謝っても駄目だ。心の底から反省して、君もフランクリンもミシェルも二度とハソコンには手を触れないことだ。マリーは謝ることが必要ではない。パソコンに二度と触れないことが必要だ。それしかないのだ。マリー、二度とパソコンに触れないと約束できるか」
「約束するわ、ボブ」
「神に誓ってか」
「神に誓って」
マリーは神に約束した。しかし、翌日にはマリーは約束を破った。ボブは二度目の約束をマリーにさせた。しかし、マリーは二度目の約束も破り、三度目四度目の約束もマリーは破った。精神科医に相談したらマリーのパソコン依存症は重症であり、夫婦で徹底して話し合う必要があるといわれた。ボブは家にある四台のパソコンを撤去しようとしたがそれは医者に止められた。パソコンはいまでは家庭に必要な存在であり、ハソコンの存在を完全に否定してしまうとパソコンの正当な価値をも否定しまうことになり、逆効果になると医者は言った。マリーが正常になれば子供達も正常になるから、マリーにパソコンをやる時間を一時間以内に限定してやるようにすればいいと医者は進言した。暫くの間パソコンから遠ざけて中毒を緩和する方が一番いい治療方法だとも医者は言った。
ボブは考えた。マリーはパソコンに熱中したために精神が変になった。一種の文明病であるのだ。文明病を治すには非文明の自然を体感するのが一番である。マリーをパソコンから隔離して自然を体感させることによってマリーが正常な精神に戻れるのではないだろか。大自然を体感し、自然の素晴らしさを知ればマリーの病気は直るに違いない。大自然に囲まれながら家族の愛についてマリーと徹底的に話し合えばマリーは失った家族愛を復活し、マリーの病んだ心は治癒するだろう。そして、夕食は家族全員で食べるようになり、夕食の後は家族団欒の時を過ごすようになる。学校の話をやり、週末は家族でピクニックをしたりレストランで食事をするようになるだろう。一年前の生活に戻すだけだから難しいことではない。マリーの病気が治れば全ては解決する。ボブはそう確信した。
ボブは一週間の有給休暇を取って夫婦で家族の原点を見詰める旅に出る決心をした。マリーは一週間の徒歩旅行に行くと聞かされた時目まいを感じたがボブに逆らうことはできなかった。マリーは渋々ボブに従うことにした。ボブはマリーと徹底して夫婦愛、家族愛について話し合うための徒歩旅行を企画して今日の早朝に二人で出発した。徒歩旅行をしている一週間はパソコンに絶対に触れさせない積もりだった。ところがマリーはもうパソコンに触れている。名も無いひなびた公園らしき場所でパソコンを持っている老人に会うということは予想もしないことであったが、マリーがわずかなチャンスにボブの目を盗んでパソコンに触れたことにボブは失望し怒った。
「マリー。僕を失望させないでくれ。マリーが僕を愛しフランクリンを愛しミシェルを愛しグラマンを愛しているのならパソコン中毒から立ち直ってくれ」
マリーは大粒の涙を流して泣いた。
「ボブを愛しているわ。フランクリンをミシェルをグラマンを愛しているわ。私はどうしたのかしら。私の頭はおかしくなっているのよ。ああ、どうすればいいのかしら」
「簡単なことだよ。パソコンに触れなければいい。ずっとパソコンに触れなければ正常になれる」
「分かったわ。私は二度とパソコンに触れない。ボブの幸せのために、フランクリンの幸せのために、ミシェルの幸せのために、グラマンの幸せのために、私たち家族の幸せのために私は二度とパソコンには触れない。私は私の家族のために私を犠牲にするわ」
このマリーの言葉に何度だまされたことか。マリーはボブが怒る度に同じことを言い、舌の根が乾かない内にボブの目を盗んでパソコンを操作していた。パソコン中毒になっているマリーの言葉は中毒者のその場逃れの言葉であり信用することはできなかった。
「僕にパソコンに触れないと何度約束したかマリーは覚えているか。」
「覚えていないわ。覚えていないけど、これが最後の約束よ。もう二度とパソコンには触れないわ。本当よ。」
「本当本当本当。その言葉を何度僕に言ったことか。マリー。パソコンに触れないと本心から言ってくれ」
「もう二度とパソコンには触れないわ。本心。」
「本当か」
「本当よ」
「本心か」
「本心よ」
「本当に本心か」
「本当に本心よ」
ボブは簡単に「本当に本心よ。」というマリーの言葉に真実の重さを感じなかった。
「マリーはパソコン中毒になっている。マリーのパソコン中毒を治すには自然を体感することだ。自然を体感して体内のパソコン毒素を洗い流すことだ。マリーは悪い人間文化に侵されている。健全な心になるには大自然を体感して自然に帰ることだ。情報社会から離れて、頭を空っぽにして人間の原点に戻ることだ。車に乗らないで自分の足で歩く。土を踏み、草を踏み、緑の木々を見る。鳥のさえずりを聞く。自然の中に身を置いてマリーに沁みこんだ悪い人間文化をすべて洗い流すことだ。分かるね、マリー。」
「とてもよく分かるわ、ボブ」
マリーは頷いた。
「とても疲れることだけど。ボブの言う通りにするわ。ボブの言う通りにするけど頭がくらくらするわ。こんなに長い時間太陽の陽射しを受けながら歩き続けるのは生まれて始めてなの」
「家に閉じこもってパソコンだけに明け暮れた性で肉体が不健全になっている証拠だ」
「そうね。ボブの言う通りだわ」
「夫婦喧嘩をしているのですか」
白い日傘を差してボブから貰ったサングラスを掛けている花子が二人の側に立っていた。
「夫婦喧嘩ではありません。病気の治療をしていました」
「そうですか。誰が病気なのですか」
「マリー。手を上げなさい」
ボブの命令にマリーは恥ずかしそうに右手を上げた。
「マリーさんが病気なのですか。大丈夫ですか、マリーさん」
「大丈夫です」
マリーは花子に言った。
「治療は終わりました」
マリーは花子に微笑んだ。
「そうですか。治療は終わったのですか。それなら大丈夫ですね」
すると、ボブは、
「治療はまだ終わっていません」
と、マリーの言葉を否定した。
「そうですか。治療はまだ終わっていないのですか。それならまだ大丈夫ではありませんね」
「そうです。大丈夫ではないのです。そうだね、マリー」
と言いながらボブがマリーを見ると、マリーはボブの声を聞かず、孝一郎のパソコンをじっと見つめていた。
「マリー」
ボブは大声を出してマリーを呼んだ。マリーはボブの声が聞こえないようで、じっと孝一郎のパソコンを見ていた。
「マリー」
ボブは叫んだ。孝一郎のパソコンを眺めていたマリーはボブを見て我に帰った。
「あ、え、あ、ボブ」
「マリー」
ボブの怒りの声に、
「ごめんなさい」
体を縮めてマリーは謝った。パソコンのある場所はマリーのためにはならないと思ったボブは急いで花子たちから離れることにした。
「マリー。出かけよう」
「はい」
マリーはゆっくりと立ち上がった。ため息をひとつしてから大きな深呼吸をした。大きな深呼吸した後に、小さな深呼吸を数回やった。深呼吸をしたマリーはふっきれたように元気になった。リュックを背負い孝一郎と花子に軽く手を振ってマリーはボブと一緒に歩き始めた。花子は去っていくボブとマリーの姿を見続けた。やがて、ボブとマリーの姿は花子の視界から消えた。
ボブとマリーが去り、ベンチは静かになった。孝一郎はパソコンに夢中になっている。
「孝一郎さん。なぜ私達はここに居るのですか。いつまでここに居なければならないのかしら」
花子は孝一郎が顔を上げるのを待ったが、孝一郎は花子の声が聞こえないようである。
太陽は三時の方向にあり燦々と輝いている。花子は孝一郎の側に座った。
「オーストラリアは南極のオゾン層が破壊されて太陽の紫外線が沢山降り注いでいるそうですよ。紫外線は皮膚がんになるそうですよ。目は沢山紫外線を吸収するんですって。目から入った紫外線は血液に入り込み血液を癌にするそうですよ。
オーストラリアでは紫外線避けのクリームを塗るのが常識だそうですよ。でも、こんな老人になってから紫外線を浴びても皮膚癌になる前に寿命は尽きてしまうかもしれませんわ。」
花子は孝一郎に話している積もりなのだが孝一郎は聞いている様子ではない。孝一郎が聞いていなくても花子は平気だった。
2011年01月30日
ゴドーと歩きながら 7/20
「マリー。パソコンを離すのだ」
「わかっているわボブ」
マリーは必死にパソコンを掴んでいる手をパソコンから離そうとしたが、マリーの手はまるで強力な接着剤でパソコンに接着しているようで離すことができなかった。必死にパソコンから手を離そうとしているマリーの顔は苦痛にゆがんだ。
「マリー」
ボブはありったけの声を出して叫んだ。
「ボブ、お願い。私の手をパソコンから離して」
「いやだ。」
「どうして。お願いだから私の手をパソコンが離して。ボブ、お願い」
「嫌だ。マリーは自分の意思でパソコンから手を離すのだ」
「私の意思はパソコンから手を離そうとしているわ。でも、手が私の意思に背いてパソコンから離れないの」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ」
「嘘じゃないわ。お願いボブ。私の手をパソコンから離して」
「マリーの本心はパソコンから手を離したくないのだ。だから、パソコンを強く掴んでいるのだ。そうだろうマリー」
「違うわ。私はパソコンから手を離そうとしているわ、でも、手が私の意思を無視しているの」
「嘘だ。マリーの手がマリーの意思を無視するなんてあり得ないことだ。マリーは嘘をついている。さあ、パソコンから手を離すのだマリー」
マリーは必死になってパソコンを掴んでいる手を離そうとした。五分、六分、七分、八分、九分、マリーの顔は血圧が上昇して真っ赤になった。十分、十一分、十二分、十三分、十四分、指の握力が落ちて来た。十五分、十六分。
「孝一郎さん。パソコンを引っ張って」
孝一郎はパソコンを引っ張った。しかし、老人である孝一郎の力ではパソコンをマリーの手から離すことはできなかった。十七分、十八分、十九分、マリーはパソコンを掴んでいる指をパソコンから離そうともがき苦しんだ。
「孝一郎さん。パソコンを引っ張って」
孝一郎は渾身の力でパソコンを引っ張った。すると、パソコンはマリーの手から離れた。
「ああ」
パソコンを離した瞬間にマリーの体は一気に弛緩してベンチにへたり込んだ。マリーの額から汗が一気に噴出し、疲れがどっと出た。ボブとマリーの関係には全然関心がない孝一郎はマリーからパソコンを受け取るとパソコンを日本語版に直して、再びインターネット株売買を始めた。
「二度とパソコンに触れないと約束したのは今日の朝だよ、マリー。それなのにもうパソコンに触れている。朝の約束を忘れたのか」
マリーはボブの怒りに体を小さくした。
「約束を忘れたのか」
マリーはうつむいて小さな声で、「忘れてはいないわ。」と言った。ボブにはマリーの声が聞こえたが声が小さいことが気に入らなかった。
「え、なんだって。よく聞こえない」
マリーは声を大きくして「「忘れてはいないわ」と言った。
「パソコンに二度と触れないと約束をしたことを忘れていないというのか」
マリーは仕方なさそうに頷いた。
「今、ここでパソコンに触れたのに、二度と触れないという約束を忘れていなかったというのか。それは嘘だ。約束を忘れていないのならパソコンに手を触れなかったはずだ。そうだろうマリー」
マリーは小さく頷いた。
「マリー。顔を上げて僕の顔を見るんだ」
マリーは恐る恐る顔を上げてボブの顔を見た。
「約束を忘れていないのならパソコンに手を触れるはずがない。パソコンに手を触れたということは約束を忘れたということだ。僕の理屈は間違っているかい。どうなんだ」
「間違っていないわ」
「僕の理屈は間違っていない。そうだよねマリー。ということはマリーは約束を忘れていたということだ。そうだよねマリー」
「約束は忘れていないわ」
マリーの返事にボブは呆れた。
「僕の目の前でパソコンを操作していたのにパソコンに触れないという約束を忘れていないというのか。呆れたな」
「私は家にあるパソコンには触れないと約束したのよ。外で他人のパソコンには触れないという約束はしていないわ」
マリーの身勝手な弁解にボブは唖然とした。
「なんてことを言うのだ。とんでもない理屈だ。パソコンに二度と触れないという約束のパソコンは家にあるパソコンのことだと言うのか。そうなのかマリー。これはマリー得意の屁理屈だ。いいかマリー。家にあるパソコンも外にあるパソコンもパソコンだ。家の中にあろうが外にあろうが、マリーのものであろうが他人の物であろうがパソコンはパソコンだ。そうだろうマリー」
「はい」
マリーは仕方なさそうにうなずいた。
ボブとマリーは同じ高校の一年違いだった。二人は高校生の時に愛しあうようになった。ボブはラグビーの選手で大学生の時は花形選手だった。プロからの勧誘もあったがボブは生活の安定を考え建設会社に就職した。マリーは大学を卒業すると広告代理店に就職していたが、ボブが二十六歳の時に、ボブはマリーにプロポーズしてマリーはボブのプロポーズを受けて二人は結婚した。マリーは結婚する時、広告代理店のデザイン課で働いていたがマリーの会社は家から二時間も離れた場所にあり、ボブの希望でマリーが妊娠した時にマリーは会社を辞めて専業主婦になった。
ボブはクレーンの仕事をしていて二人には十一歳の長男フランクリン、九歳の長女ミシェル、六歳の次男グラマンの三人の子供がいる。五人の家族はシドニーの郊外に住んでいる。マリーは数年前から専業主婦を止めて仕事に復帰する積もりでいた。ボブもそれを承知していた。
マリーはパソンコンでデザインの勉強や友人とのメールを楽しんでいたが、インターネットの懸賞金メールに興味を持つようになり、次第に懸賞金メール熱中していった。マリーは子供にもパソコンを買い与え子供たちにも懸賞金ゲームを教えた。長男のフランクリンはHPを立ち上げてインターネット交流に夢中になり、学校から帰ると部屋に閉じこもってパソコンに熱中した。マリーはグラマンとミシェルにもパソコンを買い与えて懸賞金ゲームのやり方を教えた。グラマンとミシェルもインターネットゲームに熱中するようになった。ボブが仕事から帰ってきても誰一人としてボブを迎える家族はなく、マリーとグラマンはマリーの部屋でパソンコンをやり、フランクリンとミシェルは自分たちの部屋でパソコン操作に熱中していた。
マリーは夕食を作ることを忘れることが多くなり、冷蔵庫にはインスタント食品と冷凍食品が増えて、ボブは自分でインスタント食品をレンジで温めて食べなくてはならない日が増えた。
長男のフランクリンは庭でボブとのラグビーのキャッチボール遊びを嫌がるようになった。ラグミーの花形選手だったボブにとってフランクリンがラグビーに興味がないことはさびしいことであった。パソコンに熱中していく家族に不満が募っていったボブだったが、ボブが大きなショックを受ける事件が起きた。ボブの一番の楽しみは家族でピクニックをすることであったが、なんと、家族のみんながピクニックを拒否をするようになったのだ。最初に長男のフランクリンが拒否した。その時はボブとマリーとミシェルとグラマンの四人で出掛けた。次にミシェルが嫌がった。その時はボブとマリーとグラマンの三人でピクニックに行った。ボブはマリーにこれは家庭崩壊の始まりだからフランクリンとミシェルにピクニックに行くように説得してくれと頼んだ。ところがフランクリンとミシェルを説得するはずのマリーがフランクリンとミシエルを説得するどころか自分もピクニックに行きたくないし、グラマンも行きたくないと言っているから、ボブ一人でピクニックに行くようにと言った。それは三ヶ月前のことである。
ボブの怒りが爆発した。
「マリー。君がなにをしているか分かっているのか。君は家庭を破滅させようとしている。僕が疲れて帰って来ても誰も僕を笑顔で迎えてくれない。フランクリンもミシェルも部屋に閉じこもってパソコンに熱中している。父親の僕が帰って来ても無関心だ。この半年間は家族全員がテーブルに揃って夕食を食べたことがない。それどころかマリーは夕食も作らない日が増えた。ボクはインスタント食品をレンジでチンして独りぽっちの夕食をしなければならない。フランクリンもミシェルもひもじくなったら冷蔵庫からインスタント食品を取り出して勝手に食べている。
この家はバラバラだ。もう、家庭ではない。家庭は崩壊している。マリー。家庭を崩壊させたのは君だ。僕は許せない」
マリーはボブの怒りが爆発する予感はあった。予感はあったがすでにマリーはパソコン中毒症になっていて自分でパソコンから離れることはできなくなっていた。
2011年01月29日
ゴドーと歩きながら 6/20
「ここはどこですか。」
「ええと。困ったな。ここの地名は分かりません。花子さん。ここはシドニーから西に五十キロくらい離れている所ですとしか言えません。」
「シドニーはどこですか。」
「シドニーはここから東に五十キロ進んだ所にあります。シドニーは有名ですが、花子さんはシドニーを知らないのですか。」
「シドニーはどこにあるのですか。」
花子がマイクに話すと音声翻訳機から流暢な若い女性のオーストラリア英語が流れた。ボブは「シドニーはどこにあるのですか。」と花子に聞かれて答えるのに困った。花子は日本人である。オーストラリアに旅行に来たということはここがオーストラリアであることは当然知っているはずである。シドニーがどこにあるかと聞かれても質問の真意が分からないのでボブは困った。しかし、老人を無碍にするわけにも行かない。
「シドニーはニュー・サウス・ウェールズ州にあります。」
とボブは答えた。すると花子は、
「ニュー・サウス・ウェールズ州はどこにあるのですか。」
と聞いた。ニュー・サウス・ウェールズ州はオーストラリアの東部にある。でも花子はそんなことを聞いているのではないとボブは気付いた。
「ニュー・サウス・ウェールズ州はオーストラリアにあります。」
花子は暫く黙った。考えている様子である。
「ここはオーストラリアなのですか。」
花子は立ち上がって周囲を見回した。
「ボブさん。オーストラリアはどこにあるのですか。」
「花子さんはオーストラリアがどこにあるか知らないのですか。」
「うすうすは知っているのですが、はっきりと知っているかといえばそうではありません。」
ボブは花子は老人であるために記憶が薄れているのだと思った。ひょっとするとアルツハイマー病になっているのかも知れない。ボブは子供に教える気持ちで花子にオーストラリアがどこにあるかを説明した。
「オースストラリアは日本のずーっと南の方にあります。」
「オースストラリアは日本のずーっと南の方にあるのですか。」
「そうです。台湾、フィリピン、インドネシアを過ぎてオーストラリアがあります。」
「赤道の下にある蟹の形をしているのがオーストラリアですよね。」
「そうです花子さん。そこがオーストラリアです。」
「メルボリン、シドニー・・・・・」
「オーストラリアをよく知っているではないですか。花子さんは知らない振りをしていたのですか。」
「世界地図のオーストラリアは知っています。でも、ここに立って回りの風景を見ても、ここが世界地図のオーストラリアとうまくつながりませんでした。ここがアメリカでもインドでもアフリカでもいいではありませんか。ここがオーストラリアであるという証拠はないですもの。空港の風景は他の空港の風景と同じ。街のビルディングは他の国の街のビルディングと同じ、道路は黒い色。もう、みんな同じ。
だから誰かと話すことによってしかここがオーストラリアであるという確信を得ることはできません。ここがオーストラリアであるということを信じることができるには、ここがオーストラリアであると信じている人にここがオーストラリアであるということを確信に満ちた気持ちで話してもらわなくてはなりません。ボブさんがここはインドですと確信に満ちた説明をすると、私はここはインドだと信じてしまいます。ここがアフリカですとボブさんが言えば私はここはアフリカであると信じてしまいます。ここがオーストラリアであるということはなんとなく感じていましたが確信はありませんでした。ここがオーストラリアであると誰かがはっきりと自信に満ちて言ってくれないと私はここがオーストラリアであるということに確信は持てませんでした。ボブさんと話してここがオーストラリアであるということに迷いがなくなりました。頭に浮かんだ蟹の形をしたオーストラリアの中に私が居るという感情を持つことができました。ありがとうございますボブさん。」
花子の顔が明るくなった。やっと花子のイメージに世界地図が描かれ、シドニーの位置を思い出し、シドニーから左に数センチ移動した場所に居るイメージがおぼろげに浮かび、世界地図の中のオーストラリアの地図の中に自分が居る場所をイメージすることができた。
「ここはオーストラリアなのですね。」
と花子がいうとボブは大きく頷いた。花子はオーストラリアの空気を胸いっぱい吸った。ボブは子供のような花子を微笑ましく思った。花子はオーストラリアの風景を味わうようにベンチの周りをゆっくりと歩いた。
ボブは花子からマリーの方に目を移して驚いた。マリーは孝一郎のノートパソコンを自分の膝に乗せて嬉々としてパソコンを操作している。孝一郎はマリーが操作しやすいようにパソコンの画面を日本語版から英語版に切り替えていた。マリーは画面上の東証平均株価、TOPIX、ナスダック、ドル為替、ユーロ為替の表示について孝一郎から習った。中央には指定した会社のリアルタイム株価が表示され、売り買い状況の推移も分かる。過去三ヶ月の株価の推移もキーを打って表示させることができる。マリーはパソコン操作には慣れていたから孝一郎から画面の説明を聞くと直ぐにインターネット株売買の操作を覚えた。マリーはゲームをするようにインターネット株売買を始めた。
「コーさん。ソフトバンクの株を買っていいかしら。お願い。買わせて。2870円まで落ちているからきっと明日は高くなると思うわ。ねえ、お願い。買わせてコーさん。」
孝一郎は苦笑いしながら頷いた。マリーは孝一郎からインターネット株売買の手順を習って手際よく操作して、ソフトバンクの株を一00株2870円で買った。
「マリーさん。すまないが2880円で一株信用売りをしてくれ。」
「それではコーさん。1,000円の損になります。」
「いやいやそうでもない。明日、株が上昇傾向にあるなら早めに信用売りの株を売って、後で買った株を売れば儲けるし、下降傾向になったら早めに買った株を売って後で信用売りした株を買い戻せばいい。ソフトバンクはAUを買収したために莫大な負債を抱えることになった。だから先が読めないのだ。先が読めない時は信用売り株を持っていた方が無難なのだ。」
株の売買をしたことがなかつたのに、パソコン病になっているマリーは大地が水を吸い込むように孝一郎の説明をスラスラと理解した。
「素晴らしい考えですわ。絶対に儲ける方法ですね。」
孝一郎は目が爛々と輝いているマリーに苦笑いした。
「いやいや、マリーさん。読みを間違えると逆に損をする。株の売買はなかなかうまくいかないものだよ。」
マリーは孝一郎の話を聞き流しながら、
「日本通信も買った方がいいと思います。買っていいですか。」
「いや、その株はヘラクレス株だから、信用売りができない。明日上がるという保障がないから買わない方がいい。」
「でも、今日はストップ安ですよ。きっと明日は今日の反動で上がるはずです。」
「今ヘラクレス株は売り傾向にあるのです。ベンチャー企業株は叩き売りされています。そろそろ底だとは思いますが。明日が底なのかどうか判断はできません。」
「それではアーバンはどう。アーバンは買い時ではないですか。」
マリーは次から次へと買いたい株を口に出した。孝一郎はマリーの態度に嫌がる様子もなくマリーの買いたい株が買うわけには行かない時はその理由を説明して買わないように指導し、買ってもいい株はマリーに買わせた。東証一部の信用売買ができる株を買う時は信用買いと信用売りを組み合わせる条件で株を買った。マリーはますますインターネット株売買に夢中になっていった。
「マリー。止めろ。」
ボブが厳しい声が聞こえた。
ボブの怒った声は耳の鼓膜を破るほどに大きい声だったから孝一郎は驚いてベンチからずり落ちそうになった。しかし、マリーはパソコンのモニターを見ながら株の売買に夢中になっていてボブの声が聞こえなかった。
「コーさん。新日鉄を買いましょう。それともエフエンドエムがいいかな。」
ボブはマリーに近づき、
「マリー。」
と怒鳴った。
「あら、ボブ。どうしたの。」
「止めるんだ。」
「え、なにを止めるの。」
「パソコン操作するのを止めるんだ。」
「パソコン?私はパソコンなんか操作していないわ。」
「マリーの膝の上にあるのは何だ。」
マリーは膝の上にパソコンがあるのに気づいて驚いた。
「あら、まあ。パソコンだわ。どうしてパソコンが私の膝の上にあるのかしら。」
「よくも白々しいことをいう。パソコン中毒症のくせに。一週間の有給休暇をとって、なんのために二人で徒歩旅行に出たと思っているんだ。有給休暇は三人の子供と一緒に家族全員で旅行をするために取るのが当然であるのにだ。今度の旅行は子供達をママに預けてマリーと二人だけで徒歩旅行に出た。その理由をマリーは忘れたのか。今度の旅行の目的を思い出せ。夫婦とはなにか家族とはなにかということを二人で考え直すために夫婦だけの徒歩旅行に出たのを忘れたのか。そうだろうマリー。君がパソコン中毒になったために家庭は滅茶苦茶になってしまったことを忘れたのか。」
「そうだったわ。ごめんなさい、ボブ。」
マリーは泣きそうになりながらボブに謝った。しかし、マリーの手はしっかりとパソコンを掴んでいた。
「パソコンを孝一郎さんに返しなさい。」
ボブに言われてマリーは自分の手がパソコンを掴んでいることに気づいた。
「早く返しなさい。」
「は、はい。」
とマリーは言ったがマリーの手は硬直して動かなかった。
「マリー。」
ボブの激しい声にマリーの体はびくっと震えた。
「コーさん。パソコンをお返しします。」
と言って、パソコンを孝一郎に返そうとしたが、マリーの体は硬直したまま動かず、手はパソコンを固く掴んでパソコンを離そうとしなかった。
2011年01月28日
ゴドーと歩きながら 5/20
男の名前はボブ、女の名前はマリーである。二人とも黒いサングラスを掛けていた。
花子は二人が花子の居る場所に来ることを期待しながら、黙々と歩いている二人を見詰めていた。二人とも金髪だった。花子は歩いて来る男女が膚の白い金髪の人間であることを知り、ここが色の黒い人が棲んでいるアフリカやインドなどではなく、金髪の人間が棲んでいるアメリカかヨーロッパ当たりだと予想した。花子はベンチに置いてあるバッグを開いた。バッグの中には音声翻訳機が入っている。音声翻訳機は英語やフランス語やドイツ語やスペイン語だけでなくスワヒリ語など世界四十八国の音声言語を翻訳する能力があるすぐれものである。花子はバッグから音声翻訳機を取り出した。音声翻訳機は携帯電話くらいの大きさで手の平サイズである。花子は音声翻訳機を手に持ってスイッチを入れてから二人の人間が近づくのを待っていたが、音声翻訳機にはイヤホーンとマイクを設置しないと使えないことを思い出し、バッグの中にあるイヤホーンとマイクを探した。二人の人間はどんどん近づいて来る。花子はイヤホーンの端末を音声翻訳機に差し込もうとしたが音声翻訳機にはイヤホーン、マイク、バッテリー、パソコン等への接続口があり、花子はイヤホーンの接続口がどれであるかを知らなかったからイヤホーンを接続するのに時間が掛かった。やっとのことでイヤホーンを接続すると花子は急いでイヤホーンを右の耳に押し込んだ。老人の動作は遅く、花子が音声翻訳機を取り出してイヤホーンを右の耳に押し込んだ時にはボブとマリーの二人はまぢかに迫っていて、花子は急いでマイクを接続しようとしたがなかなかうまくいかなかった。やっとのことでマイクを接続した時にはボブとマリーは花子の側を通り過ぎようとしていた。花子はあわてて音声翻訳機の翻訳国のスイッチを入れてマイクを持つと金髪のボブとマリーを呼び止めた。
「もしもし。」
花子がマイクに向かって声を発するとすぐに音声翻訳機から外国語が流れた。二人はびっくりして振り返った。花子は背の高いボビーに近づき、顔を上げて自分の居る場所を聞いた。
「ここはどこですか。」
とマイクに言うと音声翻訳機から外国語が流れた。花子は「ここはどこですか。」という日本語を翻訳した外国語が二人の外国人に伝わったと思ったから、マイクを背の高いボブの方に向けてボブの返事を待った。マイクを向けられたボブは首を傾げて返事するのに困った様子だ。花子は背の高い金髪のボブが返事をするのに困った顔をしたので音声翻訳機が故障したのではないかと不安になった。花子はゆっくりと丁寧に言った。
「こ・こ・は・ど・こ・で・す・か・。」
音声翻訳機から外国語がゆっくりと流れ出した。背の高い金髪のボブは音声翻訳機から発せられた言葉が理解できないという風に両手を広げてマリーと顔を合わせた。マリーも理解できないという風に両手を広げた。花子はもっとゆっくりとマイクに「ここはどこですか。」と話した。しかし、背の高い金髪のボブは腕組みをして首を振りながら花子の知らない外国語を話した。すると、音声翻訳機は、
「私は彼の言葉を日本語に翻訳することは出来ません。彼はオーストラリア英語を話しています。あなたはスイッチを押し間違えていませんか。もう一度確かめて下さい。」
と言った。花子は自分の操作に間違いがある筈はないと確信していた。きっと音声翻訳機が故障したのだ。音声翻訳機が故障したので音声翻訳機が使えないと思った花子は途方にくれた。
「アナタハ、ニホンジンデスカ。」
背の高い金髪のボブは自分の胸の高さしかない白髪の女性に腰を曲げて話した。花子は背の高い金髪の外国人が突然「あなたは日本人ですか。」と言ったので驚いて後ずさりしてまじまじと背の高い金髪の外国人を見た。外国人は少し困った風な顔をし、微笑しながら、
「ワタシハ、ニホンゴヲスコシワカリマス。」
と言った。花子は外国人と話す時は音声翻訳機で対話するものだと信じている。背の高い金髪の外国人がたどたどしい日本語のような言葉を使ったので花子は困った。外国の外国人は外国語を話すものだ。ここは日本ではない。日本に棲んでいる外国人が日本語を話すのは理解できるが、外国人が外国の地で日本語を使うのは変であるし気味が悪い。花子は気味が悪くなってどのように対応すれば分からずにどきまぎしたが、気味悪さを打ち消すために花子は音声翻訳機の音量を上げて再びマイクに、
「ここはどこですか。」
と言った。音声翻訳機から耳をつんざくような大声が発せられたので背の高い金髪のボブとマリーは思わず耳を押さえて、花子の知らない言葉を発した。
「私は彼の言葉を日本語に翻訳することは出来ません。彼はオーストラリア英語を話しています。あなたはスイッチを押し間違えていませんか。もう一度確かめて下さい。」
と音声翻訳機はさっきと同じ言葉を繰り返した。
「オバーサン。ワタシハニホンゴガスコシワカリマス。」
と背の高い金髪の青年は言った。すると音声翻訳機は
「私は彼の言葉を日本語に翻訳する必要がありません。あなたはスイッチを押し間違えていませんか。もう一度確かめて下さい。」
と言った。花子は困った。日本語しか知らない花子は外国の地で会話をする時は音声翻訳機だけが頼りなのだ。ところが翻訳機は無情にも「私は彼の言葉を日本語に翻訳する必要がありません。」と言って花子のために背の高い外国人の言葉を翻訳することを拒否した。「あなたはスイッチを押し間違えていませんか。」と言ったが、花子はスイッチを押し間違えた覚えはない。音声翻訳機は音声翻訳することを放棄してしまったようだ。外国語を一言も話せない花子は音声翻訳機が使えなければどうしようもない。ところが音声翻訳機が故障したようだ。もう音声翻訳機に頼るわけにはいかない。花子は背の高い金髪の外国人の手を握ると孝一郎の居るベンチの方に連れて行った。
「あなた。この音声翻訳機はまた壊れてしまいましたわ。もぅしょっちゅう故障する音声翻訳機ですこと。」
いらいらした花子の声にノートパソコンを覗き込んでいた孝一郎は顔を上げた。花子の側に二メートル近い大男が立っているのに孝一郎は驚いた。
「あなた。この音声翻訳機はまた壊れてしまいましたわ。もぅしょっちゅう故障する音声翻訳機ですこと。」
孝一郎はポケットから音声翻訳機を出した。マイクとヘッドホーンを接続してからヘッドホーンを耳に入れ、マイクに
「あなたは誰ですか。」
と言った。音声翻訳機からオーストラリア英語が流れた。背の高い金髪の外国人が話すと音声翻訳機から日本語が流れた。
「私はボブです。彼女はマリーです。」
マリーが「ハウドゥーユードゥー。」と言って孝一郎に握手を求めてきた。
「私は孝一郎です。彼女は花子です。日本から来ました。」
「私たちはシドニーから来ました。徒歩旅行をしています。孝一郎さんは日本から来たのですか。こんな何もない広場に居るのは珍しいですね。オーストラリアには素晴らしい観光地がたくさんあります。もう色々な観光地をまわったのですか。」
「いえ、今日の朝、オーストラリアに来ました。」
孝一郎が音声翻訳機を使ってボブと話していることに花子は不満だった。
「孝一郎さん。私の音声翻訳機は故障したというのに孝一郎さんの音声翻訳機は故障していません。私はボブさんと話すことができないしマリーさんと挨拶することもできません。」
孝一郎は花子の音声翻訳機を調べた。
「花子さん。ここはドイツではありません。ドイツ語で話しても理解されませんよ。」
と言いながらスイッチをオーストラリア英語翻訳に切り替えて花子に渡した。
「まあ、そうでしたの。私は音声翻訳機が故障したと思いましたわ。」
「この機械が故障したことは一度もないですよ。いつも、花子さんはスイッチを押し間違うのだから。」
孝一郎の話は花子の耳に入っていなかった。花子は音声翻訳機のマイクを掴むとボブに向かって、
「ここはどこですか。」
と言った。音声翻訳機からオーストラリア英語が流れ出した。ボブは苦笑いしながら答えた。
「ここはシドニーから西に五十キロくらい離れた場所です。」
音声翻訳機からやさしい声の日本語が聞こえてきた。花子は音声翻訳機から慣れ親しんだ日本語の声が聞えてきたので安堵した。
「シドニーから西に五十キロくらい離れた場所ですか。ここはどこですか。」
と花子が聞いたのだが、ボブはここの地名を知らないので困った。ボブはマリーに聞いたがマリーもここの地名を知らなかった。
「ここはどこですか。」
ボブは辺りを見回しながら地名を思い出そうとしたが初めて来た場所であり、ここの地名は記憶になかった。
「花子さん。すみませんが、私はここの地名を知りません。」
「地名を知らないのですか。」
「はい。」
とボブは言ったのに、花子は、
「ここはどこですか。」
と質問した。
「ええと、困ったな。」
と言いながらボブはマリーを見たが側にいるはずのマリーは孝一郎の側に座ってノートパソコンを覗いていた。ボブは苦い顔をした。
2011年01月27日
ゴドーと歩きながら 4/20
「それは言えません。」
花子の以外な返事に孝一郎は驚いた。
「ゆうかりの木の方へ行く理由を言えないのですか。」
花子は戸惑いながら、
「言えないことはないのですが。」
花子の顔が赤くなった。
「孝一郎さんは私がゆうかりの木の方に行く理由をどうしても聞きたいのですか。」
孝一郎は花子がゆうかりの木の方に行きたい理由は知っていたから、無理して花子から聞きたいとは思わなかった。それに花子がゆうかりの木の方に行こうとしている理由を知らなくても強引に花子からゆうかりの木の下に行きたい理由を聞きたいとは思わなかった。
「どうしても聞きたいとは思いません。」
「そうですか。ああ、よかった。」
孝一郎がゆうかりの木の方に行く理由を聞かなくていいと言ったので花子ほっとしてくったくのない微笑をした。手を伸ばして孝一郎の手を取ると歩き始めた。孝一郎は花子の手に引かれるままに歩いた。花子と孝一郎はゆうかりの木に近づいて行った。ゆうかりの木に近づいていくとそよ風が吹いた。
「風があると涼しいです。」
花子は気持ちよさそうに言った。
「涼しいですね、花さん。」
「ゆうかりの木が風を呼んでいるのかしら。」
「そうかも知れません。」
ゆうかりの木の数メートル近くまで来た時、花子は歩を進めるのを躊躇した。
「どうしたのですか、花さん。」
花子は歩を進めることに戸惑っている。
「いえ、なんでもありません。」
ゆうかりの木にコアラが棲んでいるかどうかを確かめるのに花子は迷った。コアラはきっとゆうかりの木に棲んでいる。コアラがゆうかりの木に棲んでいるということは長年一緒に生きてきた孝一郎が嘘つきであったということを証明してしまう。花子は孝一郎に嘘つきの夫になってほしくなかった。
「なんでもないのですか。」
心配そうに花子を見ている孝一郎の顔を正面から見ることができなくて花子は目を伏せた。
「なんでもありません。」
花子は小さな声で答えた。
「なんでもないのなら歩きましょう。」
孝一郎は花子の手を引っ張った。
「そうですね。歩かないといけないですね。」
花子は歩こうとするが足が動かなかった。孝一郎は花子の手を取り歩を進めた。孝一郎が迷いもなくゆうかりの木の方に歩いていくので花子はゆうかりの木にコアラは棲んでいないかも知れないと不安になった。
もし、ゆうかりの木に一匹のコアラも棲んでいないとすると花子は本当のことを言った孝一郎を嘘つき呼ばわりをしたことになる。花子が孝一郎を嘘つき呼ばわりしたのを孝一郎は知らない。でも孝一郎を嘘つきだと思ったのは花子なのだから花子は知っている。花子は孝一郎の手に引かれながら歩いたが前に進みたくないという気持ちが足の運びをぎこちなくさせて体がふらついて転びそうになった。
孝一郎と花子は大きいゆうかりの木の下に来た。花子はゆうかりの木を見上げてなにかを探している。花子はきっとコアラを探しているのだと孝一郎は確信していた。
「なにもいないですよ。」
と孝一郎が言っても花子は孝一郎の声が聞こえないらしくしきりにゆうかりの木を見上げていた。
「なにもいないですね。」
と言って花子は溜息をついた。孝一郎が推測していた通り花子はゆうかりの木に上っているコアラを探していた。しかし、ゆうかりの木の上にコアラを見つけることはできなかった。花子は暫くの間コアラを探したがコアラはゆうかりの木に居ないようであり、花子はコアラを見つけることを諦めた。花子は心の中で孝一郎を嘘つき呼ばわりしていたことを謝った。
「ごめんなさい。」
孝一郎は、
「いいですよ。」
と言った。
ざざーっと風が吹いてきてざわざわとゆうかりの木の枝と葉が騒いだ。
「木の下は涼しい。」
とゆうかりの木を見上げながら孝一郎が言うと、
「木の下は涼しいです。」
と孝一郎と一緒にゆうかりの木を見上げながら花子は言った。ゆうかりの木の下で涼を感じていた孝一郎だったが、遠くの方の自分達がいたベンチを見るとベンチに置いてきたノートパソコンが気になってきた。
「ベンチに戻りましょう、花さん。」
花子は涼しいゆうかりの木の下に留まりたかったのでベンチの方に行くのを嫌がった。
「ベンチにパソコンや荷物を置いてあります。だから戻らなくてはならないのです。」
孝一郎が説得したが、涼しい木陰から花子は離れたくなかった。
「それではベンチの荷物を取って来ます。花さんはここに居てください。」
孝一郎はゆうかりの木の陰から出てベンチの方に向かった。
「孝一郎さん。」
後ろで花子の声がした。不安そうな声だった。孝一郎が振り返ると花子は孝一郎の方に向かって歩いていた。
「私も行きます。」
花子は離れていく孝一郎を見ていると置き去りにされていくような不安が募ってきて、ゆうかりの木の下に一人だけで居ることができなくなり孝一郎を追った。孝一郎は立ち止まり花子を待った。近寄って来て差し出した花子の手を握ると孝一郎はベンチに向かって歩いた。
ペンチに戻ると孝一郎はノートパソコンを開いてEnterを押して暗くなっていたモニターを明るくした。株売買画面を見ると仕掛けてあった株は売れていた。うまい具合に今日の最高値で売れていた。孝一郎は再びパソコンに夢中になり、ゆうかりの木の下に戻る約束を忘れてしまった。花子はゆうかりの木からベンチに移動する最中にゆうかりの木に戻る約束を忘れていた。
花子は少し疲れていたから静かにベンチに座っていた。遠くの方に赤い色の丘がある。花子が見慣れている丘は緑色の丘だ。珍しい色の丘を花子はぼんやりと見詰めていた。
ここはどこなのだろう。花子の脳裏にふっと疑問が浮かんだ。ここはどこなのだろう。赤茶けた地面。濃い緑の葉が輝いている木々。ここは日本ではないことは花子はなんとなく分かる。小さな丘が遠くに見えるが丘には低い木が点在している。地肌が剥き出しになっている丘は赤っぽい。日本の丘は緑に覆われていて赤っぽい丘は見たことがない。地平線が丘の遥か彼方に見える。遥か彼方の地平線に至るまで平野はつづき、平野には稲らしき緑の絨毯は見えない。緑が点在しているだけだ。日本なら一面に緑の雑草や木々が地面を覆っている。ここは日本ではないことは分かる。しかし、ここがどこなのか花子は知らない。ここはどこなのだろう。花子は公園のベンチに座っている自分の場所がどこなのか知りたかった。しかし、パソコンに熱中している孝一郎にここがどこであるかを聞く気にはなれなかった。ただここはどこなのだろうとぼんやりした思考を繰り返していた。
花子はベンチに座ったまま何時の間にかうたたねをしていたようだ。目を開くと赤っぽい風景が目に映った。
「ここはどこなのですか。」
と無意識に口に出した。孝一郎を向くとノートパソコンを膝に置いたまま首を垂れている。孝一郎はうとうとと居眠りをしていた。
「孝一郎さん。」
と声を掛けたが、孝一郎は反応しなかった。
「孝一郎さん。」
孝一郎が顔を上げれば「ここはどこですか。」と聞きたい花子だったが孝一郎が顔を上げなかったので何度も孝一郎を呼んだ。花子の声に孝一郎は顔を上げた。孝一郎が起きたので花子は、
「ここはどこですか。」
と聞いたが、目の覚めた孝一郎は株価の状況に関心は強かったので花子の質問は聞かないでパソコンのモニターに夢中になった。孝一郎がうとうとしているほんの十分間に東証株価が200円近く下がっていた。もっと下がるのかそれとも今が底で再び上昇するのか。上昇気配なら買いである。もっと下がるのなら様子見だ。もう少しで株売買は終わる。最後の決断の時である。株の動きに集中している孝一郎にはますます花子の声が聞こえなくなっていた。
2011年01月26日
ゴドーと歩きながら 3/20
「それは言えません。」
花子の以外な返事に孝一郎は驚いた。
「ゆうかりの木の方へ行く理由を言えないのですか。」
花子は戸惑いながら、
「言えないことはないのですが。」
花子の顔が赤くなった。
「孝一郎さんは私がゆうかりの木の方に行く理由をどうしても聞きたいのですか。」
孝一郎は花子がゆうかりの木の方に行きたい理由は知っていたから、無理して花子から聞きたいとは思わなかった。それに花子がゆうかりの木の方に行こうとしている理由を知らなくても強引に花子からゆうかりの木の下に行きたい理由を聞きたいとは思わなかった。
「どうしても聞きたいとは思いません。」
「そうですか。ああ、よかった。」
孝一郎がゆうかりの木の方に行く理由を聞かなくていいと言ったので花子ほっとしてくったくのない微笑をした。手を伸ばして孝一郎の手を取ると歩き始めた。孝一郎は花子の手に引かれるままに歩いた。花子と孝一郎はゆうかりの木に近づいて行った。ゆうかりの木に近づいていくとそよ風が吹いた。
「風があると涼しいです。」
花子は気持ちよさそうに言った。
「涼しいですね、花さん。」
「ゆうかりの木が風を呼んでいるのかしら。」
「そうかも知れません。」
ゆうかりの木の数メートル近くまで来た時、花子は歩を進めるのを躊躇した。
「どうしたのですか、花さん。」
花子は歩を進めることに戸惑っている。
「いえ、なんでもありません。」
ゆうかりの木にコアラが棲んでいるかどうかを確かめるのに花子は迷った。コアラはきっとゆうかりの木に棲んでいる。コアラがゆうかりの木に棲んでいるということは長年一緒に生きてきた孝一郎が嘘つきであったということを証明してしまう。花子は孝一郎に嘘つきの夫になってほしくなかった。
「なんでもないのですか。」
心配そうに花子を見ている孝一郎の顔を正面から見ることができなくて花子は目を伏せた。
「なんでもありません。」
花子は小さな声で答えた。
「なんでもないのなら歩きましょう。」
孝一郎は花子の手を引っ張った。
「そうですね。歩かないといけないですね。」
花子は歩こうとするが足が動かなかった。孝一郎は花子の手を取り歩を進めた。孝一郎が迷いもなくゆうかりの木の方に歩いていくので花子はゆうかりの木にコアラは棲んでいないかも知れないと不安になった。
もし、ゆうかりの木に一匹のコアラも棲んでいないとすると花子は本当のことを言った孝一郎を嘘つき呼ばわりをしたことになる。花子が孝一郎を嘘つき呼ばわりしたのを孝一郎は知らない。でも孝一郎を嘘つきだと思ったのは花子なのだから花子は知っている。花子は孝一郎の手に引かれながら歩いたが前に進みたくないという気持ちが足の運びをぎこちなくさせて体がふらついて転びそうになった。
孝一郎と花子は大きいゆうかりの木の下に来た。花子はゆうかりの木を見上げてなにかを探している。花子はきっとコアラを探しているのだと孝一郎は確信していた。
「なにもいないですよ。」
と孝一郎が言っても花子は孝一郎の声が聞こえないらしくしきりにゆうかりの木を見上げていた。
「なにもいないですね。」
と言って花子は溜息をついた。孝一郎が推測していた通り花子はゆうかりの木に上っているコアラを探していた。しかし、ゆうかりの木の上にコアラを見つけることはできなかった。花子は暫くの間コアラを探したがコアラはゆうかりの木に居ないようであり、花子はコアラを見つけることを諦めた。花子は心の中で孝一郎を嘘つき呼ばわりしていたことを謝った。
「ごめんなさい。」
孝一郎は、
「いいですよ。」
と言った。
ざざーっと風が吹いてきてざわざわとゆうかりの木の枝と葉が騒いだ。
「木の下は涼しい。」
とゆうかりの木を見上げながら孝一郎が言うと、
「木の下は涼しいです。」
と孝一郎と一緒にゆうかりの木を見上げながら花子は言った。ゆうかりの木の下で涼を感じていた孝一郎だったが、遠くの方の自分達がいたベンチを見るとベンチに置いてきたノートパソコンが気になってきた。
「ベンチに戻りましょう、花さん。」
花子は涼しいゆうかりの木の下に留まりたかったのでベンチの方に行くのを嫌がった。
「ベンチにパソコンや荷物を置いてあります。だから戻らなくてはならないのです。」
孝一郎が説得したが、涼しい木陰から花子は離れたくなかった。
「それではベンチの荷物を取って来ます。花さんはここに居てください。」
孝一郎はゆうかりの木の陰から出てベンチの方に向かった。
「孝一郎さん。」
後ろで花子の声がした。不安そうな声だった。孝一郎が振り返ると花子は孝一郎の方に向かって歩いていた。
「私も行きます。」
花子は離れていく孝一郎を見ていると置き去りにされていくような不安が募ってきて、ゆうかりの木の下に一人だけで居ることができなくなり孝一郎を追った。孝一郎は立ち止まり花子を待った。近寄って来て差し出した花子の手を握ると孝一郎はベンチに向かって歩いた。
ペンチに戻ると孝一郎はノートパソコンを開いてEnterを押して暗くなっていたモニターを明るくした。株売買画面を見ると仕掛けてあった株は売れていた。うまい具合に今日の最高値で売れていた。孝一郎は再びパソコンに夢中になり、ゆうかりの木の下に戻る約束を忘れてしまった。花子はゆうかりの木からベンチに移動する最中にゆうかりの木に戻る約束を忘れていた。
花子は少し疲れていたから静かにベンチに座っていた。遠くの方に赤い色の丘がある。花子が見慣れている丘は緑色の丘だ。珍しい色の丘を花子はぼんやりと見詰めていた。
ここはどこなのだろう。花子の脳裏にふっと疑問が浮かんだ。ここはどこなのだろう。赤茶けた地面。濃い緑の葉が輝いている木々。ここは日本ではないことは花子はなんとなく分かる。小さな丘が遠くに見えるが丘には低い木が点在している。地肌が剥き出しになっている丘は赤っぽい。日本の丘は緑に覆われていて赤っぽい丘は見たことがない。地平線が丘の遥か彼方に見える。遥か彼方の地平線に至るまで平野はつづき、平野には稲らしき緑の絨毯は見えない。緑が点在しているだけだ。日本なら一面に緑の雑草や木々が地面を覆っている。ここは日本ではないことは分かる。しかし、ここがどこなのか花子は知らない。ここはどこなのだろう。花子は公園のベンチに座っている自分の場所がどこなのか知りたかった。しかし、パソコンに熱中している孝一郎にここがどこであるかを聞く気にはなれなかった。ただここはどこなのだろうとぼんやりした思考を繰り返していた。
花子はベンチに座ったまま何時の間にかうたたねをしていたようだ。目を開くと赤っぽい風景が目に映った。
「ここはどこなのですか。」
と無意識に口に出した。孝一郎を向くとノートパソコンを膝に置いたまま首を垂れている。孝一郎はうとうとと居眠りをしていた。
「孝一郎さん。」
と声を掛けたが、孝一郎は反応しなかった。
「孝一郎さん。」
孝一郎が顔を上げれば「ここはどこですか。」と聞きたい花子だったが孝一郎が顔を上げなかったので何度も孝一郎を呼んだ。花子の声に孝一郎は顔を上げた。孝一郎が起きたので花子は、
「ここはどこですか。」
と聞いたが、目の覚めた孝一郎は株価の状況に関心は強かったので花子の質問は聞かないでパソコンのモニターに夢中になった。孝一郎がうとうとしているほんの十分間に東証株価が200円近く下がっていた。もっと下がるのかそれとも今が底で再び上昇するのか。上昇気配なら買いである。もっと下がるのなら様子見だ。もう少しで株売買は終わる。最後の決断の時である。株の動きに集中している孝一郎にはますます花子の声が聞こえなくなっていた。
ここはどこなのだろう。
花子は立ち上がって周囲を見回した。すると赤い土の道を歩いている人間らしき姿が見えた。花子はじっと人間らしき姿を見詰めた。人間らしき物体は花子の居る方に近づいて来る。人間らしき物体はぼやけて見える視界から焦点が合う視界の範囲内に入ったが、やっぱり花子が予想した通り人間らしき物体は人間であった。ぼやけて見える視界に居た時は一人に見えていた物体は焦点が合う視界に入ってくると二つの人間の姿になった。二人の人間はリュックを背負い黙々と歩いている。一人の人間は男のようだ。もう一人の人間は女のようだ。三十代の男と女のカップルだ。二人は薄茶の探検用の服を着ていた。
2011年01月25日
ゴドーと歩きながら 2/20
「私の体を土埃と一緒に舞い上げようとしました。」
「そうですか。恐らくつむじ風だったのでしょう。」
「つむし風ですか。」
「そう、つむじ風です。」
孝一郎が花子を襲った正体はつむじ風だと説明したことに花子は納得した。つむじ風なら巻き上げた土埃で花子を包み白い帽子を空中に放り出し白い日傘を花子の手から奪ってしまうだろう。花子は心が落ちついてきた。体の震えも止まった。
「ベンチに戻りませんか、花さん。」
花子はベンチに戻りたくなかった。ベンチに座っているのは退屈である。花子はもっと公園の回りを散歩したかった。
「ベンチに戻るのですか。」
花子はベンチに戻るのを渋った。
「花さんはベンチに戻りたくないのですか。」
「ベンチに座っているのは退屈です。」
「退屈ですか。」
「退屈です。」
「そうですか。」
「孝一郎さんは退屈ではないのですか。」
「退屈ではありません。」
「私は退屈です。孝一郎さんはなぜ退屈ではないのですか。」
「パソコンで株の売買をしていますから退屈ではありません。」
「株の売買ですか。私はベンチに座ってやることがありません。」
「回りの風景を眺めることができます。」
「それは終わりました。」
「あれこれと考えることができます。」
「あれこれと考えました。あれこれと考えるのも考えものです。頭が痛くなってしまいます。」
「頭が痛くなるのですか。」
孝一郎の手に引かれて歩いていた花子は孝一郎と話している内に何時の間にかベンチの前に来ていて、孝一郎と話している内にベンチに座っていた。
「あれこれと考えると頭が痛くなるのです。」
ベンチに座った花子はいこごちが悪そうに言った。
「あれこれと考えると頭が痛くなるのですか。それではあれこれと考えないようにすることが大切ですね。」
孝一郎はノートパソコンを膝の上に置いてEnterキーを押した。黒い宇宙に無数の流星が流れていたスクリーンセイバーの画面が消えて株式会社のリアルタイム株価の画面に変わった。
「空の白い入道雲は動きません。いつまでもあそこに居たままなのですかねえ。」
空を見上げている花子の声に孝一郎は空を見上げた。
「ああ、止まっているように見えますねえ。でも少しづつは動いているでしょう。時計の針のように。」
と言ってからノートパソコンに目を移した。暫く雲を見詰めていた花子は地上に目を移した。
「あの木はなんという木なのでしょうか。」
孝一郎は花子の顔を見て、花子の顔が向いている方向に目を移した。花子が見つめているのは百メートル近く離れた場所に立っている大きなゆうかりの木だった。
「あれはゆうかりの木です。ゆうかりの葉はコアラの食べ物です。不思議なことにコアラはゆうかりの葉しか食べません。」
「コアラさんはゆうかりの木の葉しか食べないのですか。」
「そうです。」
花子は立ち上がってベンチを離れた。
「どこへ行くのですか。」
「あのゆうかりの木の方に行ってコアラが葉を食べているのを見てきます。」
「あのゆうかりの木にコアラは居ないですよ。」
「どうしてですか。」
「コアラは動物園かゆうかりの木がたくさん生えている山の中にしか棲んでいません。一本しかないゆうかりの木にはコアラは棲んでいません。」
「棲んでいないのですか。とても大きい木なのに。」
「とても大きい木ですが、一本しか生えていません。コアラは棲んでいません。」
花子はゆうかりの木を見たまま立っていた。
「あのゆうかりの木にはコアラは棲んでいません。花さん。座ってください。」
花子はベンチに座った。花子はじっとゆうかりの木を見詰めた。
孝一郎は時々花子を見ながらパソコン操作をした。株価の動きが膠着した状態になったので孝一郎はパソコンから目を離して花子を見た。
花子はベンチに座り仏像のように動かずじっとゆうかりの木を見詰めている。
孝一郎は思案した結果、これから上昇していくだろうと推測できる日本通信株に67,400円で二株の買いを入れた。買いをセットした後に顔を上げて花子を見た。
花子はベンチに座り仏像のように動かずじっとゆうかりの木を見詰めている。白い日傘を右手で持ち、右腕の肘をしっかりと腰につけて座り花子は遠くのゆうかりの木を見詰めている。
孝一郎の推測に反して株価は少し上昇してから下降し始めた。上昇傾向なら少し下降して再び上がるはずである。孝一郎は東証平均株価とTOPIXの平均株価とナスダックとヘラクレスの平均株価を見比べながら自分が買ってある株価の推移を分析した。ひょっとしたらそのまま下がり続けるかもしれない。ひょっとすると下げは止まり上昇に転じるかも知れない。円が上がり始めた。アメリカのヘッジファンドはどのように動くのだろう。ヨーッパのヘッジファンドは買いに入るだろうか。孝一郎はわくわくしてきた。世界の政治・経済情勢に左右されながらヘッジファンドや個人株主の推理や思惑などが蠢いて変動していく株式市場。変化の絶え間がない退屈をしない株式市場。売りか買いが。いやいや今は様子見がいい。下げ底に行くか上げに行くか。孝一郎は株価の推移を見ながら絶えず推測した。
孝一郎がインターネット株の売買に夢中になって花子の話を聞かなくなった時、ゆうかりの木をじっと見詰め続けている花子の脳内イメージには大きなゆうかりの木にコアラが棲んでいるという妄想が生まれた。花子の妄想は次第に確信に変わっていった。花子の脳裏の映像にはコアラが大きなゆうかりの木に上り枝から葉をむしり取ってむしゃむしゃ食べている情景が映った。
孝一郎は大きなゆうかりの木にコアラは棲んでいないと断言したが、コアラはゆうかりの木の葉しか食べないのなら大きなゆうかりの木ならコアラが必ず住んでいるはずだと花子は思った。ベンチから遠い大きいゆうかりの木を見続けているとゆうかりの木に棲んでいるコアラがむしゃむしゃとゆうかりの葉を食べている情景が見えるような気がした。その妄想が増幅していって花子はゆうかりの木の下に行って、コアラがゆうかりの葉をたべているのを見たくなった。花子は孝一郎の説明は真実ではない気がした。孝一郎は嘘を突いていると花子は思った。孝一郎は花子をゆうかりの木の下に行かしたくないから本当は大きなゆうかりの木にはコアラの家族が棲んでいるのにコアラは居ないと孝一郎は嘘をついていると花子は思った。孝一郎は花子をゆうかりの木の下に連れて行かないだろう。孝一郎が連れて行ってくれないのなら花子は一人でゆうかりの木の下に行きコアラを見るしかない。花子は一人でゆうかりの木の下に行くことを決心した。花子は黙ってベンチから立ち上がりベンチを離れた。
真っ青な空、真っ白な雲、草の生えていない赤い土の上を花子はベンチから離れて歩いた。白い日傘を右手で持ち、花子の顔は真っ直ぐゆうかりの木を向いていた。
ピピピピピピピピ・・・・・・・・突然、孝一郎の携帯電話が鳴った。孝一郎はピピピピピと鳴った瞬間にいつも後悔する。携帯電話がピピピと鳴るということは孝一郎の側にいる筈の花子が孝一郎から百メートル以上も離れた場所に居るということである。株式売買に夢中になりすぎて愛する花子をないがしろにしたから花子は百メートル以上も離れた場所に行くまで孝一郎は気づかなかったのだ。孝一郎は自分の浅はかさを恥じ、株の売買に夢中になって花子から心が離れていたことを後悔した。
花子はピピピピ音がどこから聞えてくるのか分からずに右往左往していた。白い日傘を掴んでいる右手を上に翳し、背を曲げ、辺りの地面を見たり、白い日傘を見上げたり、くるくると体を回転させたりした。遠くから見ると花子は踊っているように見える。でも、得たいの知れないピピピピ音に恐怖し慄いて花子は踊っているように動き回っているのだ。孝一郎は急いで花子の側に行くと花子の腰のホルダーから携帯電話を取り出してピピピピ音を消した。
「ああ、それがビビビビと鳴っていたのですね。私はピピピという音は宇宙か地面の中からやって来ていると思ってとても怖かったです。」
「この携帯電話からピピピ音は出ています。花さんの腰に掛けてあるのです。」
「そうですか。私の腰に掛けてあったのですか。知りませんでした。」
花子はピピピピ音に惑わされて疲れてしまい、ほっとしたら疲れがどっと出て来て座り込んだ。孝一郎は花子の側に座り携帯電話を花子の腰に掛けてあるホルダーに戻した。
「どこに行こうとしていたのですか。花さん。」
花子は呆然として脳が活動停止をしているので孝一郎の声はただの音にしか聞こえないから孝一郎の質問に反応しなかった。孝一郎は花子の額の汗を拭いた。暫くして花子は立ち上がった。辺りを見回した。ゆうかりの木を見つけると歩き始めた。
「どこへ行くのですか、花さん。」
花子は孝一郎の声に驚いて孝一郎を振り返った。
「どこへ行くのですか、花さん。」
孝一郎が聞くと花子は暫く考えた。
「あのゆうかりの木の方へ行くのです。」
「なぜゆうかりの木の方へ行こうとしているのですか。」
孝一郎が聞くと花子は恥かしそうに下を向いた。
